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![]() しばらくすると、空気もやわらいで、冬の薄日の差す朝の時間が流れ始めた。 ![]() ![]() ![]() ![]() さすがに今冬の寒さの一番の底のような今日の山には、見るべきものはないのだが、この「何もなさ」もすがすがしい。 いや、たとえば、冒頭に掲げた木の実などは、何もなさのゆえに発見することができた景物。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() わかりにくいが、眼下の向こうに加古川の流れがみえる。 ![]() とても濃密なエロティシズムが、抑制された筆致からにじみだす。それが下品にならないのは、文章の力だが、もうひとつ北京料理の数々が精緻な筆で吟味されるように文章を彩る。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ちょうど中華街・南京町で旧正月を祝う「春節祭」の催しにでくわした。今日は旧暦の大晦日にあたるらしい。 邪気を祓う獅子と幸福をもたらす金龍が元町商店街のアーケードを練り歩いている。獅子は写真を取り損ねた。これは目の前を進む全長47メートルの金龍。 昨日今日と少しあたたか。 ここ数日、「歴程」の作品に集中しているため、ブログはおろそかになる。今日は所用もあったが、神戸はいい気分転換になった。(といっても、本屋に立ち寄って、おもしろそうな本を2,3冊買っただけなのだが。) ![]() 高橋悠治のピアノに耳を傾けながら、しきりにそんなことを考えていた。 例えば、武満徹にとって、谷川俊太郎や大岡信や瀧口修造(とりわけ「実験工房」という存在は重要)といった詩人たちを抜きにしては語れまい。高橋悠治も「現代詩手帖」によく寄稿していた。音楽ばかりではなく、現代美術の世界も、詩の世界のすぐ隣にあった。詩人、岡田隆彦の美術評論はおもしろかった。美術評論の俊英だった宮川淳は、清岡卓行や吉岡実や渋沢孝輔を熱く論じていた。 ぼくが現代詩に出会った学生のころは、ちょうど、高橋悠治がニューヨークから帰ってきたころだったと思うが、彼のコンサートを高柳誠と聴きにいったのをよく覚えている。現代音楽は現代詩とほとんど同じ時代の空気を共有しあっていたように思う。近藤譲のむずかしそうな音楽論も、わけがわからなかったが読んでいた。秋山邦晴の「日本の作曲家たち」という上下2巻の作曲家論はいまも本棚の手に取れるところにある。そんなことを考えると、近頃は現代音楽と現代詩とは、どうなのだろう。 60年代は、音楽のみならず、美術の世界とも濃密な関わりをもっていた。駒井哲郎、加納光於といった版画家と、安東次男、大岡信、瀧口修造、吉岡実らの交流はよく知られるところだ。今、思い出したが、田村隆一の『新年の手紙』の装幀は池田満寿夫だった。そうそう、飯島耕一には、すぐれたシュールレアリズム論があった。 当時はごく自然に、現代美術の展覧会を見に行った次の日に、唐十郎や寺山修司のテント演劇のなかにいた。武満徹のエッセイは、そのまま現代詩のテクストと変わりなかった。詩と演劇と音楽と美術が、同じ空気を吸っていたのではなかったかと思う。 前置きが長くなったが、ぼくが高橋悠治に強い関心を持っているのは、彼の音楽に対する姿勢、あるいは、《ことば》についての認識なのだが、そういう彼の思想に、現代詩が置き去りにしてきた何かがあるのではないかという予感を感じているからなのだ。 クセナキスやケージといった、現代音楽を牽引してきた作曲家と直に接し、彼らの作曲の現場やそこでの息づかいまでも伝えることができる人のひとりに高橋悠治がいるわけだが、彼の証言を聴くことは、現代音楽のみならず、現代詩に関わるものにとっては、とても貴重である。 なかでも、高橋悠治が、「だれ、どこ」という連載を彼のサイト(水牛suigyu)で始めているのを、ぼくは更新されるたびに、興味深く読んでいる。 この連載のはじめには、次のように書いている。 「いままでは個人的なことを書かないようにしてきた。記録もとっておかなかった。いま薄れていく記憶が失われないうちに、いくつか書き留 めておいてもいいかもしれない、音楽について語り合った人たちのことを、いまはもうない場所のことを。そこであったことと、いま思い出さ れる姿のあいだには、時間が『反省』の薄膜をかけている。くりかえし書いたこともある。それでも思い出すたびに、ちがうかたちで現れる。」 毎回、興奮するようなことがさりげなく書かれている。これらの証言に込められた思いをどう引き継いでいくかということは、現代音楽の当事者だけでなく、いやしくも芸術に関わる者にとっては、大切な問題を提起されているように思われる。 「だれ、どこ」の一部を少し長いが引用する。 「2011年はクセナキス没後10年だった。2012年はケージ生誕100年で、ヨーロッパやアメリカでは多くの記念行事がある。最近の作 曲家は自分の作品より長く生きて、晩年は忘れられ、有名なだけで作品は演奏されないこともある。ストラヴィンスキーは最晩年にニューヨー クのホテルで暮らしていた。入院したが酸素テントの下でロシア語しか話さず、聞き取れるのはヴェラ夫人とバランシンだけだったと言われ る。亡くなって1年間はすべての作品が演奏された。次の年には『春の祭典』と『兵士の物語』だけになった。武満の最後10年間は、日本で は演奏されなくなり、委嘱はアメリカとヨーロッパだけだった。亡くなって1年間はあらゆる作品が演奏され、それ以後は他の現代作品を演奏 しないで済むために、ポップソングばかりが演奏されるようになった。クセナキスの最晩年もフランスでは演奏されず、委嘱はドイツとイギリ スから来た。音楽は商品で、作曲家の名前はブランドになったようだ。音楽への興味や発見のためではなく、業界のアリバイのために使われる のだろうか。 ケージやクセナキスはいまでは研究者たちに解剖される死んだ音楽標本になっていく。できあがった作品の細部まで分析しても、残された繭の 構造のみごとさからは、飛び去った蝶の姿は見えないだろう。短い20世紀と言われる。1914年までは19世紀ヨーロッパの長い終わり だった。その後は戦争と革命の時代で、伝統は破壊され、新しさを求めた試行錯誤が続いたが、1920年代の終わりから、実験の行き詰まり から引き返し、機械文明への素朴な信仰をもったままで「バッハ」や「原典に帰る」新しい権威主義が支配し、1960年代の終わりには失速 したが、まったく崩壊するまでには1990年を待たなければならなかった。その後の、先の見えない賭博経済と民族紛争しかないこんな時代 の音楽の現実からは、固定したカテゴリーやシステムや方法を論じたり、すぎてしまった新しさに価値や展望を求める態度には、縁遠いものを 感じる。過去は技術だけではないだろう。規則や定義や理論としてはっきり限定されないままに、世代を越えて受け継がれる文化伝統、音楽的 身体や感情は、歴史の可能性とも言えるし、音楽的ふるまいの環境でもあり、呼吸する空気でもあるだろう。」
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