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「身体としての書物」の中で、ボルヘスの講演録「ボルヘス、オラル」が採りあげられている。 もう既に目の見えないボルヘスが、それでも本を買い込み、家中を本で埋め尽くしていると語っている。その部分、 「先だっても一九六六年版のブロックハウスの百科事典を贈り物にいただいた。家の中にその本のあることがはっきりと感じられ、わたしは一種の至福感を味わっていた。二十数巻の書物がそこにあるのだが、今のわたしにはそのゴシック文字は読めないし、そこにはさまれている地図や図版を見ることもできない。それでも、書物はそこにあった。わたしは書物から放たれる親しみのこもった重力のようなものを感じていた。」 ぼく自身はそんなにたくさん本を持っているわけではないが、それでも小さな書斎の本棚はどれも本で埋め尽くされている。どう考えても、ここにある本を読み尽くして死ぬことは不可能である。残された生涯にもはや読めないだけの本があるにもかかわらず、それでも本を買ってしまうのはなぜなのだろうと考える。 おそらく、本は読むためにだけあるのではないような気がする。ボルヘスの言う「書物から放たれる親しみのこもった重力のようなもの」ということばに出会って、なるほどと思った。 本屋や古本屋で本を買うとき、まず手にとってみる。その最初の重さ、軽さというのは、やはり物理的なそれではないような気がする。興味を引くタイトルやお気に入りの著者、やっと見つかった本など、初めてその本に触れるときからして、その重さの感覚には、目に見えない思い入れの重さのようなものが入り込んでいる。本の表紙から眺めて、ページを開き、その活字や見返しやら目次やらを一通り確かめる。装幀者や表紙の絵やデザインの作者などは、必ず見てしまう。それから幾箇所かの任意のページを開けて読んでみる。そのときに、買うか買わないかが決まる。要するに、大げさに言えば、身体の全身の感覚で、本を相手にしているわけである。買った本を、ぼくの場合はすぐには書棚には入れない。しばらくは机の横にあるテーブルに積み重ねておく。一冊まるごと読まないまでも、しばしば、それを手にとって、摘み読みしたりする。それらの本がうずたかくなると、本棚におさまるわけだが、読めずに本棚にいってしまう本もこのごろは多い。しかし、それでもなお、本棚の所定の場所におさまると、また違った本の相貌があらわれる。隣あわせの本や、そのあたりの本にまじって、ある種の書物空間そのものを醸し出す。本棚には、学生のころから今にいたるまで買った本が並んでいるわけだが、その時間も含めて、自分の精神の履歴みたいなもの、それを見えるかたちにしたのが本棚ということになる。そこには、読む、読まないという区分けとは別の本の意義というものがあるように思う。負け惜しみのように聞こえるかもしれないが、本を読むことを「留保」するたのしみ。お酒と同様に、本を「寝かせておく」たのしみとでも言えばいいか。たしかに、「読む」という行為のなかには、「読むべき時節をよむ」ことも含まれているに違いない。
by loggia52
| 2009-08-01 13:38
| 書物
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