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暑さを避けて、コーヒー店に入る。大きな通りに面しているが、なかはひっそりとして静か。通りからの光も大きく切り取ってある窓からたっぷりと入ってくるが、涼しくて心地よい。エアポケットにはいったよう。珈琲もほどほどのにがみ。深いココア色のテーブルと同じ色の椅子。客はぼくを含めて3人。本を読んでいる人、メールを覗いている人。ともに女性。 詩とは本来、相手の魂に語りかけるものだった。見えない相手の魂に届くのが詩のことばなのである。 今度の詩集は、「死者という名の在りし日の生者のたちに 生者という名の来(きた)る日の死者たちに」という献辞があるとおり、親しい死者を詠んだ詩、矢川澄子、澁澤龍彦、多田智満子、脇田和など。それから、中国の詩人、田原にあてた、中国の旅をめぐる詩やモンゴルの旅の詩。 しかし、圧巻は冒頭に置かれた、母や祖母などの身内をよんだ詩と「サヨコのために」と副題のある「小夜曲」。とりわけ、山口小夜子のために書かれたこの「小夜曲」は、かたちとしては、詩人にのりうつった「サヨコ」が自らの生を語るというものだが、思わず引き込まれてしまう。ある意味では、高橋自身の詩論になっている。 私は着た 風を着た 空を着た 夜明けを着た 夕焼けを着た 海を着た 草原を着た 廃墟を着た 地下迷路を着た 考古学を着た 占星術を着た 神霊術を着た 着ては脱ぎ 脱いでは着ながら気付いた 着ては脱ぐ私も一種の服で 本当は着られているのだと 私にも本当は 顔も体もないのだと 『小夜曲』 部分 高橋睦郎という詩人は、自らを、ことばを入れる空洞となし、ことば=魂をその中で遊ばせる。「私にも本当は 顔も体もないのだ」というのは、高橋の考える理想の詩人の肖像に他ならない。対象を響かせる楽器と化して、ことばを装う詩人の営為と衣服を装うモデルのそれが同じだというのである。 高橋睦郎の朗読は聞いたことがある。しずかだが、声のつやとはりがあってよくとおる。その詩の骨格のツボを意識した絶妙の呼吸と間(ま)を、一種のケレンを怖れない内的なドラマにこめて。ただし、それでいて自然なのだ。
by loggia52
| 2009-08-22 14:52
| 詩
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