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夜明け
法華経を受持する僧が熊野に詣づる途中に、ある山中での夜臥していると、法華経をかすかに誦する声を聞く。終夜その法華経は聞こえてきて、その声はとても尊い声で、他にも宿している持経者がいるのだと思っていたが、朝になってあたりを見回してもだれもいない。そばに苔の生えた死骸ばかりがあった。 「近く寄りてこれを見れば、骨みなつらなりて離れず、屍(かばね)の上に苔生ひて多く年を積みたりと見ゆ。髑髏(どくろ)を見れば口の中に舌あり。その舌鮮やかにして生きたる人の舌の如し。一叡(僧の名)、これを見るに奇異なりと思ひて、さは夜経を読みたてまつるは、この骸にこそありけれ。」 僧は、その夜もまた、この髑髏の読む経の声を聞くために同じところに臥すのだが、夢に、髑髏の本人が現れて、その謂われを語る。 僧は比叡山の僧で、生きている間に六万部の法華経を読経しようと願ったが、この熊野の山中で、不慮の事故で死んでしまった。生きている時にその半分まで読経を終えているので、そのあとを死後も続けて満願を期しているのだと。 このうような話である。こういう舌だけが生きて法華経を読むというすさまじい話は、法華経信者に特徴的で、自らの悟りよりも、民衆を救うために生きるという自己犠牲の強い宗教者の激しい姿をよく伝えている。そう言えば、宮沢賢治も法華経の篤い信仰を持っていた人だった。 もうひとつおもしろいのは、「読む」ことの身体性というものである。お経を読むことが修行であること、つまり、その「声」にこめられたものは、今のぼくたちには計り知れない何ものかを含んでいただろうと思われる。今風のことばで言えば、身体としての声である。声という身体。声が即身体であり心であり宇宙であるというようなパワーが感じられる話である。
by loggia52
| 2010-02-02 23:29
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