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野村さんのお話は、冒頭に「定型から学ぶものはとりあえず何もない。定型をもとめるのは詩の弱さであり、詩が強ければ、あるいは健康であれば、定型は忘れられいる」と、挑発的な発言から始まった。また、みずから詩作するとき、七と五の音には敏感にそれを避けようとしているというのは、ぼくなどにも、よくわかる。その理由を、共同体的なものを忌避する素質がはたらいているのではないかと、彼は推測している。つまり、大岡信の《蕩児の家系》にいうごとく、近代詩人たちはことごとく共同体を逐われた息子であり、そのDNAを引いた現代の詩人である野村氏自身も、共同体の匂いの色濃い七と五の音数律に警戒するのではないか、というわけである。 さらに、短歌・俳句は詠むもの、口辺(口のあたり)にかかわるものであり、詩は、手にかかわる、つまりエクリチュールであるとする。そのことを踏まえたうえで、定型とは音数律(七と五のリズム)の問題であり、そうした定型が生み出す力を、朔太郎の詩などに見いだすことができるということを、「竹」を例にあげて説明した。そのなかで、興味深かったのは、「根の先より繊毛が生え」の「繊毛」を「せんもう」と読むのではなく「わたげ」と読むのではないかという那珂太郞さんの説を紹介し、一行目から順次、「take」、「aodake」、「hae」、「 takenone」 と続くリズムは、「a」と「e」の母音のながれによって作られている。したがって「繊毛」も「watage」と読むべきであるというのである。 さらに、音数律を基底としながら、それとの差異を意識化させたリズムが作品を作り出している例として、渋沢孝輔の「スパイラル」を挙げて説明。 そして最後は、「鶏頭の十四五本もありぬべし」という子規の句に触発された野村さんの自作の朗読があってお話は終わる。この「応答」という作品はなかなかおもしろかった。
by loggia52
| 2010-11-12 22:47
| 詩
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