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比叡山とその周辺、高野山、葛城周辺といった関西の山、それも神社仏閣のある霊的な磁場を古くから占めている場所を巡って書かれた連作であるが、物語が語られるわけではない。 芭蕉の俳文を混ぜあわせたり、和歌や俳句が引用されたりする。はては平家物語に登場する「いかめ房」なる僧兵の亡霊とおぼしきもものが語り手と対話する。日常からはずれた山の世界で、幻影や幻聴が語り手を襲う。 「山門を潜り、長い石段を昇る途中で、耳もとでいきなり男たちのどっと笑い躁(さわ)ぐ、幻覚めいたものが弾けたかと思うと、耳の奧がすっと、うつし心がついた感じで静まり、さきほどの葬列を離れた時から、風に聞こえる声とは別に、読経に似た耳鳴りがつづいていたことに気づかされた。その静かさの中へ、至るところ人の頭ほどの丸石を転がしてうねる黒土のひろがりの、その中央に白々と打ちこまれて立つ生木の角柱がつかのま浮び、背がいまさら盛んに汗を噴き、脚が別人のように、深くたわんで、健やかに石段を踏んでいた。」(「陽に朽ちゆく」より) このような幻覚と幻聴をもよおす語り手の五感の違和感や齟齬感が小説を動かしている。言い換えれば、語り手の意識は身体にしっかりと収まっておらず、ともすると身体から誘い出され、そのときに男たちの笑い躁ぐ幻聴を聴いたり、「いかめ房」という山僧の亡霊を幻視するのである。 つまり、文体は、そのような身体に収まっていない意識感覚の齟齬感や違和感によって作られているということもできる。語り手の意識が身体から遊離したり、身体にもどったりといった運動が、文のリズムを産み出しているというのは、今の引用部分からもあきらかであろう。 ところで、この作品の圧巻は、末尾で、語り手自身の意識と身体がはっきりと乖離してしまうところを、なんの不思議もなく書いてしまうところだろう。 「立ち止まって目の前の、吉野の山と谷との入り組みを見おろした。花が咲いていた。紅く枯れた葉のつらなりが山から谷へ、谷から山へかけて、花のありかをくっきりと占めていた。(中略) そのまま坂をまっすぐ駆け下り、躁ぎまくったあげくに静かに狂って、日の暮れた畑の道をどこまでもどこまでも大股の歩みで急ぐ、ぼってりと闇を吸って膨れた影をまだ慕いながら駅の構内の雑踏の中で、ふっと電話をかけるようなつもりで立ち止まり、首をことさらにかしげ、眉間に皺を寄せ、用もないふところの小銭をもそもそと探っている、男の姿がありありと山上から眺められた。」(「帰る小坂の」末尾) 山上から眺めているのは語り手であり、引用冒頭の「立ち止まって・・・見下ろした」とあるとおりである。そして、駅の構内で首をかしげ、眉間に皺を寄せ、小銭をふところのなかに探っているのも文脈から言えば、語り手その人である。意識は山上に留まっているのに、身体は既に山をおりて日常の語り手にもどっているという按配なのである。 古井由吉は、この結末のシーンをまず心棒に据えて、この連作を書いたのではないかと思わせるほどに心憎い終わり方である。
by loggia52
| 2011-01-14 00:35
| 書物
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