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前の詩集《桜病院周辺》のなかの一編、『蜘蛛を潰す』に感嘆していらい、彼女の詩が気になって、《官能検査室》までさかのぼって読んだが、今度の詩集も、まちがいなく今年のすぐれた詩集の一冊になるだろう。 だれもいない そして 傾いた気配と 笑いの半分だけがある 机の上の大きな瓶から 苔の古いにおいがする 罠でもいいんだ いろんなものを棄てにきたんだから と思っている 浴槽が置かれていて 浮かんだ細かな汚れを すくいとり すくいとり するが きりがなく 途方にくれる 給水も排水もできない仕組み そう思う途端 まだまだだな とさらに嘲笑される 分析するな ということか 夏の沼が窓から見える ひどく濁っているが あれが無垢ということ 浴槽は あそこにつながっているんだ 深緑色の泥が 鼻や耳から溢れそうになる やっとここまで来た 『その部屋のこと』 全 新しい詩集の二作目の作品のすべてである。 ことばがたえず身体(肉体)の感覚で測られている。感覚や感情は身体を通してことばになる。身体の肉片がこびりついているようなことばだ。たとえば、「無垢」ということばは、夏の沼の深緑色の泥が鼻や耳から溢れ出すような身体感覚と直結している。詩集のどの作品も、不安な、不穏な、不埒な身体感覚が、詩(ポエジー)の発火点になっている。脈絡のないその身体感覚は、そのまま、人の「在ること」の、「生きていること」の違和感や齟齬感につながっているだろう。 ことばが抽象性や意味性の支配する世界に増幅される前に、身体感覚で裏打ちされているのが、岬多可子の詩のことばだ。 「苺を煮る」という秀作の部分。 「じくじくと 苺は赤い血を吐くが 忸怩たる とはこういうことか。 うつくつと 琺瑯の鍋は音をたてるが 鬱屈した とはこういうことか。」 もうひとつ今度の詩集でおもしろいと思ったのは、「箱」や「卵」や「殻」という容器の使い方。 これは詩誌《左庭》で掲載されたときに、ここで引用した「箱の虫」という作品だが、箱の中に「幼虫五十匹」を入れて、電車にのって持ち帰るシーンなのだが、 「くるしいだろう かさなったり よじれたり しているのを 蓋で抑えこみ 骨を抱くほどの姿勢で 座席に沈む」 「骨を抱くほどの姿勢で」というあたりから、箱の中の幼虫が、なにものかに変容していく。 「鳴かないから よいようなものの どのひとも どのひとも 見えないようにして 何を運んでいるのか」 箱の中身はもはや幼虫ではなくなっている。しかし、それが何かはわからない。ただ「紙箱をふるわせる蠕動」として伝わってくるもの。 この「箱」とその中身という構図は、「虫の小箱」、「箱の卵」などにも見られるが、もう一つ、「から」という作品から引こう。 「戸袋に 枯れ草のひとつかみと 孵らなかった薄青い卵 そっと振ってみると なかみが揺れるようすもなく 暗い空(くう)が 乾いて ちいさくしずまっている おさない縁取りのある ガアゼのハンケチでくるみ 割らないで 潰さないで 仕切りのある お菓子の箱へ かたつむりの殻 へびの皮 うにや せみも かるくもろい ぬけがらを あつめて 蓋をすれば だれも語らない 夜だ その箱を 揃えたひざこぞうにのせ こどもが腰かけているのは 階段の 下から三段目 裸足に ネルの寝間着で (以下略)」 こういう一連の箱とその中身の構図の作品を読んでいると、それが岬多可子の詩法なのではないかと思い至る。詩とは、日々生きるうえで身体によりそってくる不条理な感覚や違和感や、不埒で不穏な感情の熱を入れる「箱」(「殻」や「空(くう)」もそのヴァリエーションであろう)のことではないだろうかと。在ること、生きることにまつわる、名付けえぬ不可解な感情の齟齬を、詩という「箱」に詰めて蓋をする。その箱の暗がりのなかで(そこはことばの息づく空間の謂いでもあるだろう)、それは閉じ込められ、封じ込められるのではなくて、別のなにものかに変容していくのだ。その過程は、とりもなおさず《詩》というものの正当な姿ではないか。 「幼虫五十匹」を入れた箱を、「骨を抱くほどの姿勢で」運ぶ姿に、岬多可子という詩人の自画像を見てしまうのは決して不自然なことではないだろう。 もう一編。「領分」という作品の全部を掲げたいのだが、少し長くなりすぎた。その一連目と最終連だけ。 てくらがり という 小さな薄闇のなか 生きていたものたちに 刃も使い 口元を覆い 種の蜜を しつこく啜ったりもする (中略) てくらがり という いつも熱っぽく湿った薄闇のなか わたくしが おこなっているのは わたくし この「てくがらり」の薄闇もまた、蓋をした箱の中の闇や、卵の殻の中の薄闇と同じく、彼女のことばが何ものかに「孵る」ところなのだ。 《静かに、毀れている庭》のもうひとつの魅力である官能性については、また別のところで触れるとして、ともかく、ここでは、石垣りんや新川和江や吉原幸子の系譜に連なりながら、それら三人の女流詩人のどの詩ともことなる岬多可子の詩的世界をはっきりと認めることができることだけを言い添えておこう。
by loggia52
| 2011-07-20 21:46
| 詩
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