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それぞれのパートは、まずピアノの断章の欠片のような短い導入のあと、四人のパフォーマーが、一人づつ、順番に朗読(時に歌を)を行い、後の三人が、様々なしぐさのパフォーマンスを行う。 昨年の10月に、そのテクストと譜面、および、制作ノートともいうべき「掠れ書き」を合わせた『カフカノート』(みすず書房)が刊行された。このパフォーマンスについては、次のようにノートに記されている。 「パフォーマーは、ことばを空中にきざみこむペンとなって、よみ、うたい、舞う。どこでもない場所、いつでもない時。薄明かりとわずかな音。書くこと、書き続けること、細部にこだわりながら、途切れることば、響き、動き。意味を持つ前の書く身体の身振りであり、意味や解釈ではなく、理解できなくても、あるいは、理解しようとするかわりに、ただ、限界線を引いて切りとることば。(略)ことばは意味や解釈で言い換えるのではなく、そこから浮かび上がる音と影のような姿、夢見るような自分の声でない声、音階からはずれていく歌、遠くから聞こえてくるような響き、唐突だが抑制された身振り、反復されながらずれていく動作、眼の前で夢を払いのける手を感じながら、はこばれていくだけ。夢見る人のいない夢、突然の転換と停止。断片を断片として、始まりもなく終わりもなく、はじまったものは途中で中断され、流れの方向が変わる。」(「カフカノートの準備」) 長い引用になったが、ぼくはこういう彼のノート的な文体に以前から魅かれている。彼の文体ははじめからどこへ連れて行かれるのかわからない。まだ自分の中で解決のつかないこと、先が見えないことしか書かない。書くこと自体が考えることであるようなスタイルとでも言えばよいだろうか。そういうスタイルを指して、ノート的と呼ぶのだが、引用した部分は、まだ「カフカノート」の制作のための準備段階でのノートである。この本がおもしろいのは、その次の、「カフカのことばを歌う」では、カフカのことばにメロディーをつける方法の考察が、そして、「『カフカノート』の作曲」の過程、さらに作曲を終えた後のコメント、最後にイワトでの公演を終えてのノートというように、作品の生み出されていく過程を一通りたどることができるということ。しかし、それらは反省とか報告とかでは決してない。さきほど言ったように、どのノートにおいても、見えない先へ、ことばはどどまらない。その流動する現在性に貫かれている。 なお、この公演はyoutubeで見ることができるので、ぜひご覧になっていただきたい。 また、1月8日付毎日新聞の書評で、『カフカノート』を丸谷才一がとりあげていた。丸谷が、高橋悠治の桐朋学園時代の英語の教師であったことは有名。
by loggia52
| 2012-01-14 21:55
| 書物
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