カテゴリ
全体 Loggia/ロッジア 『石目』について ぼくの本 詩集未収録作品集 詩 歌・句 書物 森・虫 水辺 field/播磨 野鳥 日録 音楽 美術 石の遺物 奈良 琵琶湖・近江 京都 その他の旅の記録 湯川書房 プラハ 切抜帖 その他 カナリス 言葉の森へ そばに置いておきたい本 未分類 以前の記事
2023年 11月 2023年 10月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 more... フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
彼はチェコのビロード革命(1989年)以前からプラハの屋根裏にアトリエをかまえ、長くこの都市と東京を往還する生活をしている。 革命以前のプラハの不条理な日常を肌身の内に経験している氏が感じている、革命後20年の現在の日常に対する複雑な距離感が、このエッセイを陰影あるものにしている。たんに、プラハの市民が自由になったこと、それにともなう解放感を手放しで言祝ぐわけではない。もちろん革命以前の都市をため息まじりで懐かしがっているのでもない。田中長徳がこのプラハに愛着を覚えるというときの微妙なニュアンスを正確に伝えるのはむずかしい。 プラハにのめりこむわけではない。距離をとりつつ、時にはシニカルにこの都市とつきあいつつ、不思議な郷愁と愛着をぬぐい去ることができない。 要するに、この都市との向き合い方がそのまま文体にあらわれている。たとえばこんな感じ・ 久しぶりに東京からプラハの屋根裏のアトリエに着いた日の次の朝のシーン。 「窓枠にぶら下がったつくしほどの長さのつららを折って口にいれる。甘露だ。氷が口の中で溶けないうちにと思って、あわててキャビネットまで走ってウォッカを一口含む。プラハの地のウォッカ「ルドルフ・イェリネク」。創業一八九四年と読める細長い瓶だ。ウォッカを口に含みすぎてもう一度、白い肘掛椅子に走り戻り、天窓から顔を出し、今度は窓枠に積もった新雪を一摑みして口に含む。 お湯の沸く音がして、キッチンに走る。(略)コーヒーの粉と砂糖を大きなマグカップにいれ、熱湯。あいた瓦斯コンロにフライパンを乗せ、オリーブ油。卵を二個。サニーサイドアップ。プラガーシンケン(ハム)を投げ込み、トマトも投入。さらにトーストもフライパンにいれて手抜き料理。あつあつのフライパンをアトリエに運ぶ。コーヒーをかきまわし、粉の沈殿を待つ。エスプレッソなんてとんでもない。この時間だな、と思う。チェコのコーヒーの淹れ方はコーヒー粉にそのまま熱湯をかける。オスマントルコの遺風がそのまま残ってしまったのだ。これは案外に旨い。朝食をとりつつBBCのチェコ向け放送(ただし英語)を聞く。」 『屋根裏プラハ』 この少し前のところ、同じくプラハに着いた次の朝。 「起きぬけにその気の抜けた麦酒を一気呑み。/ああ、五臓六腑にしみわたる。東京では絶対に不可能な技。気抜けの麦酒の一気呑みの価値観は「酢豆腐」の対極にある。気の抜けた麦酒の方が旨いというところにプラハの真実がある。吉田健一の食のエッセイに朝麦酒の話はよく出るが、気の抜けた麦酒の旨さはプラハで初めて知った。これを真似して日本の麦酒で試してはならない。そんなことは言うまでもないか。 プラハでの一人暮らしは実にシステマチックだ。一人暮らしの快楽がここでは存在する。なぜなら、日本で自分はあまりにも多種多様な人間のグループに属し、それぞれの役割の異なる台本を読まされて、自分はいったい誰であるのか、それがわからない。ここ、プラハでは本当に一人になって他人の中にではなく、自分の中に入ってゆける。自分がプラハと恋愛関係にあるとはそういうことを意味する。 狭いキッチンで天然瓦斯のコンロに着火。そのブルーの炎の美しさに一秒だけ見とれる。佃のタワーマンションが持っていない宝だ。都市に恋するとはこういうことなのだ。お湯の沸く間にメールをチェックする。原稿の催促が嫌いなので、その請求が来る前に、原稿はちゃんと入れてある。そのPDFファイルが東京から数本入っている。どこに住もうが仕事ができるのは神の祝福である。」 『同』 この文体が、プラハと田中氏との距離の取り方を表している。プラハと恋愛関係にあるといいつつ、決しておぼれることはない。 プラハの朝の浮き立つような新鮮な体験を書き込むときの、どこかシニカルな調子が、たとえば「ブルーの炎の美しさに一秒だけ見とれる」という書き方になってあらわれる。酔いながら醒めている。 従って、先に書いたように、ビロード革命以前にも、以後にも、かならず自分とプラハとの間にきちんと距離をつくって、都市を見ている。おそらくそれは、「ご維新」(ビロード革命のことを彼はこう呼んでいる)以前からプラハに住む人々とつきあううちに身についた感覚なのだろう。
by loggia52
| 2012-06-07 22:02
| プラハ
|
Comments(2)
|
ファン申請 |
||