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陽 池井 昌樹 まくどなるどがあるでしょう そのおむかいのほんやさん どこかでこどものこえがする やさしいだれかよんでいる それをだまってきいている いつものよごれたまえかけで うでぐみをしてとしよせて あのこがおとなになったころ まくどなるどはあるかしら むかいにほんやはあるかしら けれどもそこにはいないだろうな そこにもどこにもいないだろうな まくどなるどのあったころ むかいにほんやのあったころ あるひあるときあるところ かわいいこどものこえがして それをだまってきいている だれかもこんなひのなかで 道のべ 高貝 弘也 1 あなたが亡くなった、- その 日射しのすぐそばで たぎりおちる蕊(しべ) 聞こえないこえで、 あなたは泣いている (樹液のしたたり) 無花果(いちじく)の、柔らかい肌をむいた。 白緑(びゃくろく)色のにくよ 敷き藺(い)に舞いこんだ、龜虫の子たち あの道のべからはじまった 蔭祭 道わけ石。その 緩やかな 交水堰(こうすいぜき) しろい莢のようなものから、あなたは すっと 下がって (さがって) まだ生きている 池井昌樹のひらがなが流れいていく詩のかたちと、高貝弘也の独特な漢字表記が、何か心の異物のように閊(つか)えるような詩と。どちらも白秋の系譜を汲むことにおいて共通するが、詩の風体はずいぶんちがう。しかし、どもに現代日本語による詩を考えるときにはどうしても欠かせない詩人のふたりといっていい。 ぼくはかねがね、高貝の詩に、折口信夫の影を感じていた。詩は鎮魂においてほかはないという折口の詩論の正統な継承者として、ぼくは高貝弘也を名指ししたいくらいだ。折口の試みた戦後の詩とは似つかないものだが、もし、折口が今の時代に生きていたら、高貝のような詩を書くのではないかという気がしてならない。ことばに対する感受性が、折口を思わせるのだ。漢字表記にこだわって、旧字や正字を使い、漢字に和語を宛てた書法なども、霊魂が降りてくるのにふさわしい文字のかたちを腐心しているように見える。 反時代的な姿勢という点においても二人は共通している。ともにアナクロニズムと評される危惧を抱えている。開き直っているとさえ思える池井の近代詩的な郷愁をたっぷりとふくんだ情感。かたや、高貝の、古代にまで突き抜けてしまうような、霊魂の存在に対する真摯な言霊の応答といった作品のメカニズムは、他の多くの現代詩の書き手のなかでは際だって異色である。 池井昌樹の詩が、そのようなアナクロニズムを脱しているのは、自分の生きている領域の外には決して出ない、あくまでも自分の匂いのしみついた世界に執心するという禁欲的な詩の世界を画したからである。 こんどの池井氏の詩集で、散文が顔を出している。これは行分けの従来の詩の補強材のような役割を果たしているのだが、この散文スタイルがどう化けるのか、楽しみである。 高貝の詩に際立つ不思議な身体性、演劇的といってもいいような仕種。それに、「龜」や「藺」や「莢」や「蕊」という、魂がもぐりこみやすい文字のかたちが、散らされ、自分の紡ぐことばを繊細に自分の耳で確かめながら、《音楽=うた》を強く意識している。それは池井のようなメロディー(旋律)的な音楽ではない。反音楽とまでは言わないまでも、(うた)にならないことばのリズムから(うた)を考えるような不思議な調子。 対する、池井のメロディを効かせた七と五のリズムを含ませながら、時折半音を上げ下げしてすすむ音楽。先に述べたように、池井は自らの詩が描く世界を自分の(過去を含んで)生活の領域に限り、いちばん彼の核にある幼年の永遠性と隔絶性を主題とした変奏を繰り返し奏でている。きわめて卑近な、せまい生活世界を、超越的で濃密な時間のめくるめくようなうたでもってつつみこむ。引用した『陽』にみるように、まどろむような円環的な時間の無窮の淵にまで、読む者をさそいこもうとする。(つづく)
by loggia52
| 2012-10-25 22:44
| 詩
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Comments(3)
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