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さっそく読み始めると、やめられなくなった。 1845年、北極の北西航路(ヨーロッパからアジアへと続く航路)探検隊が組織され、ジョン・フランクリンを隊長に129人が北極圏に挑んだが、129人全員が死亡した。このノンフィクションは、角幡唯介が北極の冒険家、荻田泰永と二人で、フランクリン隊がたどった経路を踏破しようという内容。1,600キロ、103日間の徒歩行である。この作品が読ませるのは、160年前のフランクリン隊の遭難にいたる記録を克明に語る部分と、角幡と荻田の実際の北極行の様子とが交互に出てきて、二人の冒険の意味を浮かび上がらせようとする構成になっている。たんに二人で北極圏を踏破したという冒険の記録ではなく、フランクリンをはじめ、多くの探検家たちがなぜ北極圏に向かったのか。フランクリン隊はなぜ遭難したのか。壮絶を究めた探検隊がさいごに見た北極圏とはどんな世界なのか。なかでも、129人全員が死亡したとされているが、実は「アグルーカ」と呼ばれた生き残りがいたという伝説を、角幡は執拗に追っていく。「アグルーカ」をもとめる書物の探検の物語が、彼らの北極徒歩行の冒険の記述のなかに実に巧みに組み込まれていて、とても読み応えがある。 冒険についての、角幡のストレートな定義や、この時代に《冒険》が果たして成り立つのか、成り立つためには、何が必要なのか、ということについての問いが、絶えず彼の文章の奥に見え隠れしている。たとえばこんなところ。 「もうひとつ、これは日本を出発する時点で決めていたことだが、ジョアヘブンから先では氷上区間で使用していた衛生携帯電話を置いていくことにした。フランクリン隊の生き残りは通信手段を持っていなかったから、というのがその理由で、彼らが見たものに近い風景を体験するためには、なるべく同じ状況に身を置いて旅をしなければならないという気持ちが私にはあった。 それに本音をいうと、先にも書いたが、冒険旅行をする時には可能な限り通信手段を排除したいという気持ちが私には強かった。通信手段を確保した冒険というのは、冒険をする意味の半分ぐらいを失わせてしまうような気が、私にはどうしてもしてしまう。冒険をすることの目的とは、自然という何が起きるか分からない世界に深く入り込むことにある。奥に入れば入るほど、自然は私が生きて存在しているという厳然たる事実を身体に突きつけてくる。奥に入ることができたと感じることができた時、その冒険は成功したといえる。一方、奥に入ることができなかった時、たとえ目標にしていたゴールにたどりついたとしても、どこか物足りなく感じるのだ。どうやって自然の奥に入るかが冒険の難しさなのだが、通信機器を持っていくと、どうしてもその「入り込み感」が弱まってしまう。もちろん持っていった方が安全なのだが、最悪の場合は救助を呼ぶことができるという担保を心の中で持ってしまうことが、自然の中に入り込むことを阻害する要因になってしまうのだ。 冒険の本来の姿は放浪にある。この先、自分はどうなるんだろう。そういう漠然とした、先行きが不透明なところにその魅力はある。そして未知の世界に挑む探検にこそ、そうした冒険性は最も色濃く反映される。システム化された世界、マニュアル化された枠組みの中で展開される行為は、どんなに冒険的な意匠を凝らしていても、それは冒険ではない。」(298p) みょうなことを言うようだが、こうした角幡の冒険についての考察を読みながら、詩についてのぼくの考えについても、おなじことが言えそうな気がする。「冒険をすることの目的とは、自然という何が起きるか分からない世界に深く入り込むことにある。奥に入れば入るほど、自然は私が生きて存在しているという厳然たる事実を身体に突きつけてくる。奥に入ることができたと感じることができた時、その冒険は成功したといえる。」この部分など、《冒険》を《詩》に置き換えて読むと、ぼくの詩についてのスタンスと同じになる。 また、「冒険の本来の姿は放浪にある。この先、自分はどうなるんだろう」という「行く先が不透明なところにその魅力がある」というのも、まさに優れた詩の属性と重なるだろうと思う。 ただし、「。システム化された世界、マニュアル化された枠組みの中で展開される行為は、どんなに冒険的な意匠を凝らしていても、それは冒険ではない。」ということも、自戒を込めて、自身の詩を考える刃にしたい。 さっそく、開高健ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞をともに受賞した『空白の5マイル』も読んだが、こちらも実に面白かった。舞台はチベットの秘境《ツアンポー峡谷》。こちらはしかも単独行である。 まだ、30代の半ばの若い冒険家。文章も達者である。
by loggia52
| 2012-12-08 21:39
| 書物
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