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瀬戸内海、小豆島の西に並ぶ島々の一つが豊島。岡山県玉野市の宇野港に車を置いて、そこから19トンの小さな船で豊島に渡る。30分たらずで、豊島の家浦港に着く。島は周囲20㎞ぐらい。電動自転車を借りて島のなかを巡る。これがなかなか快適。海沿いにしだいに高度をあげるうちに瀬戸内海の海が見渡せる。 今回の旅は、家人がぜひ行ってみたいということで、下の娘をつれての3人旅。目的は、この島にある《豊島美術館》。建築設計は西沢立衛、その建物の内部には内藤礼の作品「母型」がある。いや、こういう言い方は正確ではない。建築と美術作品が一体となった美術館と言えばいいか。これまでの美術館は、建物と、美術作品は別々のものとして切り離して作られてきた。箱の中味はそのつど入れ替わって展示されるというのがふつうだが、ここは、美術館の建物を作るのと、そこに入る作品を作るのとが一体となって作られた。建築家と美術作家があれこれ話会いながらつくられたようだ。だから、《母型》のための建築物であり、建築物のための《母型》でもある。 内藤礼の《母型》は、コンクリートの床面の所々から、水滴が生まれ、床面のあるかなきかの傾斜にそって、ランダムに動いていく。おそらく強い撥水性をもったもので床面が、コーティングされているのだろう。くっきりとした水の玉が、まるで意思をもった生き物のように、動きだし、不意にとどまる。とどまっていた水の玉に、別に流れてきた玉がぶつかって一回り大きな水玉になり、また静止する。やがてそれが突然ながれだして、他の水滴を取り込みながら、さらにおおきな水たまりになっていく。そんな水玉の運動が、広々とした空間のあちこちで起こっている。ちなみにこの生まれ落ちた水滴は、建物の下の地下水をくみ上げているということだ。 鑑賞者は、その様子を、その空間の中に入って眺めるというわけだが、最初、作品のしくみがよくわからないので、ともすると、水玉を踏んでしまうことだって起こりうる。何人かの案内者がいて、踏んでしまいそうな鑑賞者のところへ行っては、こうこうだからという作品の説明をしている。 おもしろいのは、鑑賞者の様子である。座り込んでいる者、それも体育座りのようにひざを抱えている者や、正座している者、あぐらをかいている者などさまざま。寝ころんでいる者も多い。うつぶせになって両手を組んだ上に頭をのせて水玉に見入る者、うつぶせになって頬杖をついている者。眠りこけている者もいる。歩きわまっている者も、やがて自分の居場所をみつけて静かに座り込む。なかには、半日以上、そこですごす者もいるという。そう聞いても驚かない。そうだろうなと納得してしまうほど、この空間から離れたくない気分になる。ただ、黙して生まれる水玉、蛇のように流れる水玉、じっと動かない水玉を見ているだけなのに、いつまでもそこに心地よくいられる気がするのだ。 ぼくたちは開館と同時に入ったのだが、一時間ばかりいただろうか。気付けば、大勢の鑑賞者がまわりにいて、ちょっと気分がくずれてきたので、そこをあとにしたのだが、また来たいねと家人と話したりした。係の人に話しを聞くと、雨の日もおもしろいとのこと。開口部から雨が降り込んでくるのはもちろんそのままなので、水滴の運動に雨粒もくわわり、雨音とあいまって、それは独特の空間になるという。 それにしても、鑑賞者(他人)がおおぜいいるのに、なぜ寝ころんだり、ひざを抱え込んだり、頬杖をついたり、というようなしぐさができるのだろうか。ふだんなら人前で、そんな無防備な、ごく私的なくつろぎのポーズをとることなど絶対にしないのに。 それは、《母型》という作品のもつ属性とかかわるものなのではないかと思う。水滴が生まれ、時に流れ出し、しだいに大きくなって、小さな泉をつくっていく、というだけの単純ないとなみなのだけれど、なにか原型的な自然(生き物も含めた)の運動のように思えてくる。すべての生命の根源が水あるいは海にさかのぼることができることを思い出す。その空間の中にはいってしまうと、自分自身が名前も衣服も個性も出自も履歴も旅をしていることも、勿論仕事も、いっさいを脱いでしまって、無垢な裸形の存在にもどって、水の玉によりそっているのに気付く。水の運動をながめているあいだに、しだいに《私》の時間を遡行していって、ついに母の胎内にまでたどりついて、名前も家族も仕事もなにもない存在にまで還元されていくのではないか。そうやって胎内に戻った《私》という仮の意思が、ぼくの身体に入り込んでいるということか。 繊細だけれども、確かな強いメッセージを感じる。しかし、それはことばで表現することはむずかしい。一つ言えることは、この作品のゆるぎなさ、確かなメッセージを支えている根拠には、《自然》がかかわっているということだ。この島の自然=人々の生活に馴染んだ自然のなかに、不思議に溶けこんでいるシェルター。 つまり、瀬戸内の海に浮かぶ豊島の象徴的なミニチュア-ルが、この美術館のシェルターに重なる。瀬戸内の海-豊島という関係は、島の自然-豊島美術館という関係とパラレルになっているわけだ。美術作品や建築という人の営みは、島の棚田や果樹やコナラの森と同様に、自然に働きかける人の営為である。
by loggia52
| 2013-10-03 22:18
| 美術
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Comments(2)
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by
なえ
at 2013-10-08 23:35
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美術館、行ってきました!日曜の晴れた日、鳥のさえずりを聴きながら水滴を見つめていました。くつろぎのポーズで、でも床に座り込む人たちはみんな「時に想いを馳せる」表情だったのが印象的です。ごく私的な空間でしか見せない(であろう)表情で、何人かのひとがじっと(彫刻のように)している…あの水滴は見つめているだけで何時間でも過ぎてしまいそう。中央部に位置する穴に落ちてゆく水の「トゥロロ……」という人工的な音も心地よかったです。リボンの光の下に、黄緑色のバッタ君がいて楽しかったです。時里さんのお写真が素晴らしいので、自分では写真をとりませんでした(笑)芸術祭が始まっていたので、高松から高速艇に乗るのが大変でしたが、また行ってみたいです!小雨の降る日の様子も見てみたいですね。
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by
loggia52 at 2013-10-09 01:11
なえさん。いらっしゃったのですね!ぼくももう一度行くつもりにしているのですが、人出が多いようですね。近々、犬島に行く計画をたてています。それから、バッタね。ぼくも見ましたよ。
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