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今回の、「リプリーS1」という名のアンドロイドは、前作とは全く違って、いかにもロボットというようなスケルトンタイプで、ロボットの機械部分がむき出しになって、顔は真っ白、表情のないのっぺりした面貌。リーフレットをご覧になればおわかりのとおりだが、目は精巧な動きでまたたくことができ、指や腕もなめらかに動く。見た目は明らかにロボットだが、その身体的な運動は人間にとても近い。このアンドロイドがグレゴワール・ザムザを演じる。吹き替えの役者の声と、ザムザの口唇の動きは実に自然で、ほとんどアンドロイドが話しているように聞こえる。 さて、話の筋は、カフカの「変身」を翻案したもの。ある朝、目覚めると、ザムザはベッドの上でアンドロイドになっていた。妹、母、父と、次々に彼の部屋にやってきて、事態を理解することができずに混乱してしまう。とくに、父は、息子がロボットであることが理解できない。いや、認めることができないのだ。そうやって劇は始まるのだが、やがて、少しずつ家族のひとりひとりに、ザムザに対する変化がおこってくる。まあ、あらすじはここまで。 ただ、気づいた重要な点だけ一つ言っておくと、家族、つまり人間のほうは、動揺し、混乱し、考え込み、人間同士で摩擦が生じたりするが、ザムザ、つまりアンドロイドは、一貫して実に《人間的》なのだ・・・。家族思いで、優しくて、声をあらげることも、不満を漏らすこともせず、ひたすら自分が家族の重荷になっていることに心を痛めるのだ。そして、それまでと同じ家族の一員であることを信じて疑わず、自分も家族のひとりとして認めて欲しいと心から願うのである。このアンドロイド「リプリーS1」の演技―いかにもロボットという面貌のスケルトン型アンドロイドが、徐々に自分の人間的な感情が失われていくことに不安を感じ、思いに沈み、家族を気遣い、「ねえ、お母さん、ぼくの電源を切ってくれないか」と頼む、そんな数々のシーンが印象的だ。 人間とアンドロイドの境界はどこにあるのか。さっき、アンドロイドが《人間的》だと言ったが、家族や下宿人たち人間の見せる右往左往や感情の起伏や、戦争や差別につながるような言動もまた《人間的》であるとも言える・・・。つまり、アンドロイドをそこに置くことで、いろいろな人間の様相が浮かび上がってくるというところが、この演劇の一つのねらいだろうか。 長々と書いてきたが、なぜぼくがこのアンドロイド演劇に興味を魅かれたかと言うと、今取り組んでいる作品群が、アンドロイドの詩人の話をモチーフにしているから。ひとりの詩人がアンドロイドなのではなく、詩人はすべてアンドロイドが担っているという日本の話。舞台は名井島という瀬戸内海の島嶼群。そこに言語に特化したアンドロイドをつくるマニュファクチュアがある。もう既に何作かあるのだが、その一つが、朝日新聞10月7日付夕刊(東京版)に掲載されている。新聞なので、短いエピソードの切れ端のような作品だが。
by loggia52
| 2014-10-08 00:44
| その他
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