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ここ数日の暖かい日ざしに誘われて、小野の浄土寺にでかけた。車で20分。東大寺の勧進僧であった俊乗坊重源が建立した鎌倉時代の寺院で、快慶作という阿弥陀如来をおさめた浄土堂が有名。写真にあるような直線的で簡素な外観が目を引く。 このお堂の中に、阿弥陀三尊(国宝)がある。天井がなく、むき出しの朱塗りの梁が幾何学的なリズムを刻んでいるようでおもしろい。この堂内の開放的ですっきりした空間、なんといっても、何もないのがいい。三尊のほかに、全くなにもないのだ。三尊の後ろ側にも回れるが、後ろは蔀戸になっていて、すべての戸を取っ払った時に一度訪れたことがあるが、三尊の背後から西日が差し込んでくるという工夫である。何もないと言ったが、「闇」すらもない。ふつうのお堂は薄暗いなかに仏像が鎮座している。とくに背後や仏像の奧には、深い闇が巣くっているのがふつうだが、このお堂にはそれがない。そのあっけらかんとした何もなさ、ただただ、この阿弥陀三尊をちょうど今、安置し終えたばかりという感じ。つまり、何もないというのは、この阿弥陀如来が、さっきまでいなかったのが、今まさに来迎したというその聖なる時間を、カプセルのように封じるための意匠ではないかという気がする。だから、時間の経過を証拠立てるようなものは闇すらもあってはならないのだ。このお堂のなかは、時間は流れない。西方から来迎したばかりの阿弥陀三尊の影像を時間の経過から守るためのお堂なのだ。だから、この天竺様の浄土堂を取り払うと、三尊は消えてしまうということだろう。 お寺の人が阿弥陀像の前を指して、「ここに座ってみてください。ちょうど阿弥陀さんと目があいますよ。」と言う。うながされて座ってみると、三尊が頭上に覆い被さるような迫力である。写真にあるとおり五メートルを超える阿弥陀如来の立像である。立っているというところにも、今まさにやってきたという即時性があらわれておもしろい。座像、座ってしまうと時間の経過があらわれてしまう。何もかもが、時間を消去すべく作用しているお堂である。(阿弥陀三尊は撮影禁止なので、パンフレットの写真だが、背景に寺内の緑が見えるから、お堂の裏側の蔀戸をすべて取り払って撮影をしたものなのだろう。)
by loggia52
| 2008-03-18 23:06
| 美術
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