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あなたの声ぶり。こわ振りよ 霊合いの。たましひ、多麻之比よ。 生まれなおし、産みなおし。 くるりとむいて 『子葉声韻』より引いた。 高貝弘也の詩を最初に読んだとき、すぐさま折口信夫を思い出した。折口のあの不穏な、しかしわれわれの精神の古層を震えさせるような「まれびと」や「常世」、「貴種流離譚」などに流れているポエジーに通ずるところがある。あるいは、「死者の書」の「した した した」、「あっし あっし あっし」というあの言語の持つ不穏な異物感を、高貝の詩にも感じる。ただし、高貝のことばと折口のことばとは異質である。 高貝が、『白秋』によって、北原白秋に対する傾倒を明らかにしているが、その白秋が折口を「黑衣の旅人」 と呼んだことを思い出す。折口の「黒」、高貝は「白」(これは詩集の作り方、余白をことばの表現に取り込み、漢字とひらがなのタイポグラフィーを意識した作り方に象徴的に表れている。)、白秋は「白」ではないだろう(「色」か?)。しかし、高貝の「白」も、「黒」の反転としての「白」であることは言うまでもないだろう。この徹底したモノトーンの前近代的な反世界が、どうして高貝弘也という詩人に降りてきたのか。興味をひかれるところである。 『海やまのあひだ』のよく知られた「供養塔」の詞書並びに、五首、 「数多い馬塚の中に、ま新しい馬頭観音の石塔婆の立つてゐるのは、あはれである。又殆、峠毎に、旅死にの墓がある。中には、業病の姿を家から隠して、死ぬるまでの旅に出た人などもある。 人も馬も道ゆきつかれ死ににけり。旅寝かさなるほどの かそけさ 道に死ぬる馬は、仏となりにけり。行きとどまらむ旅ならなくに 邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓 ひそかなる心をもりて をはりけむ。命のきはに、言ふこともなく ゆきつきて 道にたふるる生き物のかそけき墓は、草つつみたり 」 この馬や名もない旅人の死の「かそけさ」「ひそけ」さを思う折口の歌と、生き死にのあわいにさ迷う幼いいのちに対する高貝の詩には共鳴しあうポエジーがある。
by loggia52
| 2008-12-25 21:44
| 詩
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Comments(3)
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