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まず、三井喬子さんの詩誌「部分」39号(2009年4月)に、「通訳」。「イリプスⅡ 3号」(2009年4月)に「甕」をそれぞれ載せていただいた。感謝しています。 この連休前までに「loggia」の作品を仕上げて、安藤礼二の「光の曼荼羅」をじっくり読むつもりにしていたのだが、作品の難産のために、先延ばしになった。でも、次のような書き出しを読むと、むずむずしてくる。600ページに及ぶ壮大な評論である。 「文学は死者たちとともにある。そして、死者たちとともに消え去る。 つまり、文学とは、死者たちのために一瞬虚空から取り出され、死者たちとともに虚空へと送り返されなければならない「なにものか」なのだ。 死者たちに捧げられた、虚空からの贈り物。それが文学である・ それゆえ、文学は、この現実世界に対してはなんらの有効性をもたない。徹頭徹尾、無用なものとしてある。悲惨に満ちたこの世界のなかで、言語表現の特異な方法である文学に、荒々しい現実を直接変革するような力など、まったくと言っていいほどないだろう。現実を前にして、政治や経済、さらには科学といって、剥き出しでなおかつ実践的である諸力と較べれば、文学はほとんどなにも為す術をもたない、徹底して無力なものなのだ。」(「光の曼荼羅」序 死者たちの五月) 今時、「文学とは」という真っ向からの定義から始まる直球を投げる人はめずらしい。それほどに自らの手応えを感じている証拠なのだろう。『神々の闘争 折口信夫論』を読んだときから、気になっていた書物。もうしばらくの我慢。
by loggia52
| 2009-05-10 19:13
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