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足利義満の時代に、南朝と北朝の対立がひとまず収束し、南朝方が持っていた天皇の権威のしるしである三種の神器は北朝に渡される。ところが、1443年(嘉吉3年)、南朝の復興を唱える一部の勢力が大覚寺統の万寿寺宮という親王を奉じて御所を襲い、神器が奪われるという事件が起こる。神器のうち、鏡と剣は取り戻されるが、神璽(玉=曲玉)だけが戻らない。南朝方の残党は、その神璽を擁して、万寿寺宮の二人の子を奉じて、奧吉野にたてこもる。これが後南朝と称され、およそ60年間、山間の僻地にあった。 この小説集は、その神璽を巡る争奪戦というのが、ひとまずの筋と言えばいえる。しかし、およそ小説とはほど遠い装いを持つ。まず、谷崎潤一郎の「吉野葛」についての、考察から始まり、(「吉野葛」は、谷崎がこの後南朝を舞台にした歴史小説を当初考えていたが、果たせず、彼お得意の母恋の物語に変質していくという小説)、次に室町期の画家の話になる。この作品も、なかなか話の本題にはたどりつかず、虚実織り交ぜての文献をたどりながら、ああでもない、こうでもないといった話をつなげていく。しかし、そのああでもない、こうでもないというとりとめもない話が、実におもしろく、本題がでてこなくてもおかまいなしに、道草をもっとしていたくなるような心持ちになる。しかも、実はその道草に本題の要諦がすでに仕込まれていて、ゆえに本題に入ると、実に歯切れのよいレトリックで、明快な断を下し、いささかの皮肉を添えて、あっさりと終わる。その終わり方も、当初の、あーでもない、こーでもない部分の道草の長さに比すると実にあっけない。要するに道草を食うところに小説の神髄があるということか。 集中「画人伝」は傑作だが、次の「開かずの箱」も、興味深い。「開かずの箱」とは、いうまでもなく、例の神璽を入れた箱のことであるが、むろんその中の玉を見たものは誰もいない。それどころか、それを入れた箱もどんなものかもわからない。奧吉野の後南朝の手に渡った神璽を奪って、それとひき替えに、将軍暗殺のために廃絶した赤松氏の再興を約束された赤松氏の牢人が、どうやって箱を手に入れるかというのがスジなのだが、これとても例によって例のごとく、まるで奧吉野のもつれるように幾筋もの谷をつくる入りくんだ川のように、さまざまな人物が、かかわってくる。そして、ここがこの作品のミソなのだが、得体の知れない「箱」に翻弄される人々が、将軍、武家、没落した公家、土着した豪族といった、室町期特有の階層がそれぞれ小気味よく活写されている。そして、この終わり方も、痛烈な皮肉をなするようにして筆を置く。 「小説」と名がついているが、おそらく意識してのことだろうが、およそ通常の小説とは呼べない。しかし、おもしろい。このおもしろさは、はやり小説のおもしろさ以外の何ものでもない。 ちなみに付け加えるなら、なによりも、ぼくは澁澤龍彦の小説をまず思い浮かべた。これは憶測だが、澁澤は、この花田の小説に強く触発されて、小説を書くことに踏み切ったのではないかとさえ思う。(「室町小説集」は1973年刊、講談社文芸文庫版も今は絶版)
by loggia52
| 2009-08-06 22:21
| 書物
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