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「あらゆる意味で、すでにフォーマットされた言葉のフィールドを拒むことが、この世代の詩人たちの立ち位置なのだ。フォーマットされない言葉のフィールドを自らの詩の場とするために、彼らが拠り所にしたのは自身の「身体」だったように思われる。自らの身体を通過した言葉でしか書かない。もしくは、あえてフォーマットされた言葉のフィールドを取り込みながら、それを新しい言葉のフィールドに身体を通して書き換えていくというしたたかなやり方で。それでさえ、言葉を繰り出した身体は、その言葉に激しい異物感を覚え、身体から紡がれた言葉は、その身体にぞっとするほどの違和感を感じている。しかし、両者は切り離し得ない。言葉は身体を引きずり、身体は言葉をはなせない。」(現代詩手帖09年1月号) 初めて彼の詩を読んだときの印象は「これほど、ことばを痛めつける詩にであったことがない」という感慨だった。ことばが、皮膚の下に隠している身体の内部のおぞましさをそのまま暴き、投げ出してみせたような強烈な印象だった。「身体の異物としてのことば」と言えばいいだろうか。あるいは、身体の文法でことばを振りかざしているということか。 しかし、そのあとに彼が詩を読んでいるその「声」を聞いたとき、そのグロテスクにさえ見えた作品の印象が、みるみるぼくの内で変質していくのを感じた。ことばが、あるいは身体が、癒着したお互いを引きはがすような激しい吃音的な「読み」なのだが、むしろ、その「読み」が、身体とことばとを逆説的につないでいるのではないかと感じたのである。あるいは、「声」が、身体とことばの軋轢を無効にしているというような。そこには、祈りのような心性さえぼくは嗅ぎ取った。 先の文章に続けてぼくはこんなことを書いている。 「一方で、それとは対照的な藤原安紀子の「読み」も、実は岸田と同質のものであるということにも今回思い当たった。藤原のいかにもはかなげな声の交信的なふりは、身体に帰ることも、身体から離脱しきることもできない彼女の言葉の寄る辺なさをうかがわせている。つまり、「声」だけが、身体と言葉の相互の異物性を超える装置としてある。言い換えるなら、岸田も藤原も、詩を「声」に還元する時が、最も幸福を感じる時ではないかとさえ思われるのだ。この二人の存在論的な異物感に根ざした詩の不穏なポエジーは、その裏側で、何かをはげしく愛おしむ心性を潜ませている点でも通い合うものがある。」(同) 岸田氏の新しい詩集がもうすぐ出るようである。彼の詩がどうなっていくのかとても楽しみである。
by loggia52
| 2009-11-13 20:31
| 詩
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Comments(2)
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