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![]() 飲食(おんじき)ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き涙の如し 晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて 暴君ネロ石榴を食ひて死にたりと異説のあらば美しきかな 火葬女帝持統の冷えししらほねは銀麗壺中にさやり鳴りにき おほきなる屑籠ありてやはらかきみどり兒を容(い)るるに足らむ 昨年の12月にこのブログで葛原妙子の短歌について触れたことがあった。 彼女の歌に強く魅かれると同時に、何か胸に閊(つか)えるものがあって、その謎めいた底しれなさをどう理解していいのか戸惑っていた。大部の全集を買って読んだ時期もあったが、胸の閊えはおさまるどころか、いっそう深い闇にぼくを誘うばかりであった。 もう少し具体的に言うと、惑乱するようなイメージに胸を突かれる一方で、どうしてこういう不思議なイメージが紡がれるのか、とまどうような歌。よく比較される塚本邦雄の歌の場合は、そこに見られる修辞的なケレンにうまく言いくるめられてしまう技巧に読者が酔ってしまう。いや、酔うことを彼の歌に求めている。しかし、葛原妙子の歌には、そういう技巧に酔うことはできない。表現の冴えよりは、不器用さと紙一重のような表現やことばが選ばれているような気がするのである。 昨年の暮れに小澤書店から出ていた彼女のエッセイ集に触れて、ますます彼女の歌や歌を産み出す根もとの部分に興味を持った。 そんな時にタイミングよく、「幻想の重量~葛原妙子の戦後短歌」という川野里子さんの著書に出会った。450ページという分厚い本だが、彼女の歌に真っ向から取り組んで実に明快に説得力のある論を展開している。実に実におもしろかった。ぼくの胸の閊えのほとんどはすっかりなくなったと言えるほどに、葛原妙子という歌人の本質を教えられたという思いである。 ![]() 例えば、塚本邦雄と葛原の歌の違いについて、次のように述べている。 「〈私〉の深みに沈むものを幻想によって掬い上げ、生理的、感覚的な方法で普遍に押し上げてゆこうとする葛原と、表現の表から〈私〉を消し、より方法的論理的な世界を再構築しようとする塚本。方法的には塚本の方が明らかに風通しがよく、論理的であって分かりやすいものであった。この後に来る前衛短歌論争が論理の時代であったことを思えば、葛原の抱えていた自我の問題は、方法論として不利なものをその性格ゆえに負っていたとも言えるのである。」 この自我の問題は、葛原が戦後一貫して問い続けた歌の根源に関わるもので、〈私〉を突き詰めようとする方法を歌に求めていたことを指す。「葛原にとって自我の模索は自らの深部に眠る痛みを掘り起こすような辛い作業であるほかはなかった。それゆえに生身の混沌を抱えており、方法論として明快に理論化できるものではなかったとも言える。」(389P ) これは葛原妙子論であると同時に、前衛短歌論である。また近代短歌の課題を受け継ぐ戦後短歌論として十分読みうる見識を備えている。
by loggia52
| 2010-02-25 21:40
| 歌・句
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