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束芋といえば、映像インスタレーション作家として、とても知られた女性美術家。1975年の神戸生まれ。『にっぽんの台所』で注目を集め、『にっぽんの通勤快速』は横浜トリエンナーレの出品作品で、この時は最年少の出品作家だったとか。更に、2007年、ヴェネチア・ビエンナーレにも出品を果たすなど、今や売れっ子のインスタレーション作家。 束芋という妙な名は、「田端家の妹の方」という意味らしい。彼女ら姉妹の共通の友人が、姉妹を呼び分けるために「たばあね=田端家の姉」、「たばいも=田端家の妹」と呼ばれていたのを名としたという。 それはともかく、今回は5つの大型の映像インスタレーション作品。例えば『団地層』という作品は、団地の各部屋に押し込められた家具が、次々と落下していくシーンが天井の画面に映しだされ、見るものは下からクッションに寝ころんで仰向けになって鑑賞するといった作品。これらのインスタレーションの作品はとにかく見ないことには仕方がないので、説明しにくいのだが、おっと意表を突かれるような衝撃的な作品ではないのだが、何かひっかかる。捨てておけないものを感じるのだ。よくはわからないのだが、もう一度見れば、何か別の見方が開かれるのではないかという気持ちにさせる。その魅かれるものはなんだろうと、しきりに考えていた。他にも、吉田修一の「悪人」のためのイラストや、それに触発されたインスタレーション。これもなかなかおもしろいのだが、もうひとつインパクトに欠ける。いや、そのインパクトのパンチのなさが、束芋の真骨頂なのではないかと考えた。奈良美智ような強烈なキャラクター性はない。もっと庶民的で、無名性に徹している。 日常性とそこに潜む歪んだ悪意や底の無い狂気の胚胎したイメージ。しかし、それも日常のなにげなさに回収できてしまう奇妙な感覚。つまり、はっきりとした何かをメッセージするというところはまったくない。どこかあいまいで、たいしたことはない。でも何か、悪意や狂気や不安や嫉妬や不幸が胚胎している。そういう危うさが、日常の中に潜んでいるのに、その日常性に馴染んで生きている、どこかねっとりとした生のけだるさもあったりして・・・。なかなかことばで説明するのがむずかしい。 ただ一つだけ言えることは、彼女はあくまでも、自らのイメージに自らで方向性や意味をあたえてはいない。あるいは自分のイメージすら、あいまいなままに、感覚的に、自分の手が描いてしまう像の変幻を差し出しているだけなのかもしれない。つまり、あとはこのインスタレーションを見る人がその映像や音の中に入って、それを見る人の中にできあがる映像こそが、束芋の作品ではないのか。 こう書いてきて、ふと気づいたのだが、これは高谷和幸の「ヴェジタブル・パーティー」の世界そのものではないかと直観したのだ。 もちろん30代の束芋とは世代的には随分ちがうが、それを越えて、この詩集の世界は、束芋と共鳴する要素を秘めているのではないか。 この詩集の妙なビジュアル感、歪められた映像と、変にリアルな細部、しかしそれらの細部がはっきりとした全体の像を結ばない不安な感じ。これは束芋の、たとえば、吉田修一の小説にそえられたイラスト集『悪人』(朝日文庫)を開くと、「ヴェジタブル・パーティー」を読んだほとんどの人が、その共通性に気づくはずだ。 もう少し、この詩集を読み込まないとなんとも言えないが、感覚的に、通い合うものを感じたことをまず報告しておこう。
by loggia52
| 2010-09-08 22:48
| 美術
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