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2次会にも顔を出したおかげで、電車に一本乗り遅れ、加古川で下車、家人に迎えにきてもらうしまつ。電車では、高谷さんとは古くからのつき合いの大西隆志さんと一緒だった。 さて、少し、彼の詩集について。 どうかすると、詩を読むのと、小説を読むのと同じ手続きをとってしまう。やはり、詩を読むのと小説を読むのとでは、読み方が違うはずだ。おおざっぱな言い方になるが、「詩」を読む場合、その作品に書かれている〈意味〉を探ろうとして読んでしまう場合がある。むろん、それで十分に読めてしまう詩があるのは確かだが、たとえば、高谷和幸の『ヴェジタブル・パーティ』においては、そういう読み方をしても、おそらく読み解けないに違いない。 少なくとも、詩人は、そこに読み解いてもらいたい(意味)を描き込んではいない。もし、そうなら、もっとわかりやすいスタイルを選ぶだろう。言い方を変えると、詩人自身にも、(意味)はわからないのだ。わからないから、詩というかたちで、表現しようとしているということ。意味はわからないが、詩なら、意味を越えたことばのはたらきを利用して、わからなさを克服できるかもしれない。あるいは、わからなさが、別の次元で、たとえば、ことばを動かすことで、感覚的な知覚や視覚的なイメージを練り上げて、別の世界を切り開いていく力になりうるかもしれない。 とりあえずは、(意味)の読解は放棄して、すなおに(これがむずかしいのだが)、この詩集のことばにしたがうしかない。そうすると、意味を越えた何かがうずいてくるはずだ。 たとえ、「ヴェジタブル」がどんな意味を暗示させ、どんなことを指すことばだとわからなくても、「あなた」と名指しされた人が、だれか知らなくとも、これがあるパーティにでかける詩だとわからなくても、たいしたことではない。もしそれが重要な意味をもつなら、はっきりそう明示して書くはずである。そういう意味性は、二義的なものだから、曖昧になっているにすぎない。もっとも、意味性はまったく重要ではないというのではない。この場合、ばくぜんとした意味の霧が、詩的世界の構築に重要な影を落としていることは言っておかねばならない。 「わたしたちは簞笥を背負って生きている」 と、サーラ編集人が言います。駅は現実主義 者の生成装置だから美しい、と。小鳥の羽音 がする通路に、向かい風にやわらかい髪をな びかせる簞笥。もう世界は終わっているのに、 引き出しの奧に死んだ水蜘蛛の兵士を入れて 再生を夢見ている。通路を朝日が差し、夕陽 が照らし、青い光のトンネルが敷きブロック の上にできる。わたしたちはこの空洞をいく ら潜ろうとも、潰れた亀を治療できないこと を知っている。 「簞笥はまるで生きているかのように体温を 保ち、心音を打っている。」 とパーティに向かうヴェジタブルが言います。 (以下略) 「水槽で停止する泳者」部分 これは、任意に引いた一節だが、実にしなやかな、ことばとイメージのせめぎ合い、この「簞笥」ということばの持つ日常性を後景にしりぞかせながら、それでも歴とした「簞笥」をしっかりと据えながら、「小鳥の羽音がする通路に」「やわらかい髪をなびかせる簞笥」「死んだ水蜘蛛の兵士」をその引き出しの奧に入れて」「再生を夢見る」簞笥・・・というように、次々とその簞笥のイメージを変幻させていく、このあたりの鮮やかなことばの出し入れはすばらしい。こういうところが、束芋のインスタレーションを見ている時に感じるものと響きあうのだ。 こうしたヴェジタブル・パーティの《道行き》にかかる漠とした意味の霧が、適度なストーリーの予感を感じさせるところもうまい。 谷川俊太郎の『私』を読んでいたら次のフレーズに出会った。 「意味よりも深い至福をもとめて/私は詩を書き継ぐしかない」 (「書き継ぐ」詩集『私』より)
by loggia52
| 2010-09-13 21:30
| 詩
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