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![]() 小野市詩歌文学賞の受賞式での河野さんの挨拶のことも、このエッセイに出てくるが、ぼくはたまたまその日、永田和宏さんや紅さんらと一緒に会場に入ってこられる河野さんを見かけた。そのご一家の雰囲気から、なんともいえない家族の空気感のようなものを感じたのを思い出す。お亡くなりになる2ヶ月前である。夫も、息子も娘も歌人ということもあるのだろうか、紅さんの文章を読んでいて、「歌」というものが、これほど人の思いを、ことば以上に深く伝え合うものであることに胸を突かれた。 河野さんは、枕元に手帳を置き、歌をかきつけていたという。薬袋やティッシュペーパーの箱にも歌が残っているとも。ペンを握る力がなくなると、家族が口述筆記した。 「亡くなる前の日、苦しみの波が静まったあとで、母は『あなたらの気持ちがこんなに・・・』と、やっと聞き取れるほどの小さな声で話し始めた。何を言おうとしているのかと耳をすませる。父が、あっ、と気づく。歌なのである。『こんなにわかるのに』。父が原稿用紙にペンを走らせる。 あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき 」 エッセイに記された河野さんの歌を拾ってみる。 死より深き沈黙は無し今の今なま身のことば掴んでおかねば そこにとどまれ全身が癌ではないのだ夏陽背にせし影おきあがる さやうなら きれいな言葉だ雨の間のメヒシバの茎を風が梳きゆく 死に際に居てくるるとは限らざり庭に出て落ち葉焚きゐる君は 大泣きをしてゐるところへ帰りきてあなたは黙つて背を撫でくるる そして、最後となった歌。 「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」 歌が、ほとんど彼女の声となって聞こえてくる。ことばと思いがこれほど一体となった歌を詠み得たのは、やはり希有なことだと思う。 彼女の歌に胸を打たれるのは、歌に対する時の、あるいはことばと向き合うときの、深い孤心の淵に身を潜り込ませていくその息づかいが、歌の調べをつくっているというところ。それは『桜森』という歌集で強く感じた。そういう作歌の絶対的孤独には、家族すらかかわることができない厳しさがある。その一方で、矛盾するようだが、歌を分かち合える家族との一体感というものが、彼女の作歌には欠かせない。『桜森』の中の次の歌。ぼくが最も愛する歌だが、 たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏(くら)き器を近江と言へり 河野裕子という歌人のことを詠った歌としても、この歌は読める。彼女はそういう「昏き器」から歌を紡ぐのであり、そこには、「琵琶湖」=「母」もしくは「妻」、という慣れ親しんだ日常の湖のイメージが立ち入ることができない。しかし、「昏き器」は、とりもなおさず、親しみ深い「琵琶湖」でもある。彼女の家族は、そういうことをもちろんよく理解していたからこそ、彼女自身も、彼女の歌境を深化させることができたのである。 亡くなった次の朝の夫君、永田和宏氏の歌 「おはやうとわれらめざめてもう二度と目を開くなき君を囲めり」 永田紅さんは最後にこう綴っている。 「これから底なしの本当の寂しさがやって来るだろうと怖れているが、母が亡くなったあと、私に母が入ってきたような、ふしぎな感覚を覚えている。これからはそれを育ててゆくしかない。 ドクダミの季節になればドクダミの葉を干して母という日向かな 紅 」
by loggia52
| 2010-11-22 22:01
| 歌・句
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