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「ぼくにとって本棚とは『読み終えた本』を保管しておくものではなく、まだ読んでいない本を、その本を読みたいと思ったときの記憶と一緒に並べておくものだ。『この本を読みたい』と思った瞬間こそ、この世でいちまん愉しいときではなかろうか。それをなるべく引きのばし、いつでもそこに『読みたい』がならんでいるのが本棚で、その愉しさは、読まない限りどこまでも終わらない。永遠につづいてゆく。」(「終わらない本棚」より) まったくそのとおりで、ことばの継ぎ足しようがない。 この本は、クラフト・エヴィング商會の言わば書庫にある本を、「ある日の本棚」、「森の奥の本棚」、「金曜日の夜の本棚」、「変身する本棚」といったテーマごとに取り出して、本棚に並べて、写真に撮ったもの。つまり、写真には、本の背表紙だけが並んでいる。自分の持っている本や懐かしい本を見つけるとうれしいもので、そこにある背表紙の本は、さてうちのどこに置いたっけ、と なかなか心愉しくなる。吉田篤弘という人がどういう作家なのか、作品を読む以上にわかってしまうところがある。これはちょっと考えてみると、自分の手の内をあかすことになるのだが、彼(ら)の場合、そこがむしろ眼のつけどころなのだろう。クラフト・エヴィング商會という韜晦をあきなう仕事ならではの趣向である。 もうひとつ、「旅する本棚」のところで、神戸の海文堂の包装紙にくるまれた本が二冊並んでいる。 「が、そのうち散歩に出たくなる。旅もしてみたい。どこへ行くか。もちろん神戸である。神戸について書かれた本だけで棚がいくつもできる。(中略)ぼくも相方も、神戸をカタカナの『オシャレ』な街と思ったことがない。異人館にも夜景にもさして興味はない。さんざん歩いたのは高架下だったり地下街だったりアーケード街だったりで、阪急三宮駅の夕方の雑踏であるとか、元町の雑居ビルの二階に昔からある店とか、そいういった風景しか思い浮かばない。それは自分が生まれる前からそのようしてあり、初めて訪れたときから既視感があった。それでいて、いつ行っても迷子になってしまう。」 「神戸は本を買いたくなる街だ。うちの本棚には至るところに神戸で買った本がある。『既視の街』はいまはもうない高架下の古本屋で、『迷子論』は三宮地下の新刊書店で買った。買った本の背中が入り口になり、本棚から『あのころの神戸』までいつでも歩いてゆける。」 『既視の街』(金井美恵子)や『迷子論』(堀切直人)は、背表紙が写っているのだが、その海文堂の包装紙の二冊は、写真下の書き込みに『兵庫神戸のなんどいや』と『わいらの新開地』とあった。ともに神戸の詩人、林喜芳の本である。
by loggia52
| 2011-05-01 11:05
| 書物
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