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![]() 「しかし、ティントレットときわめて対照的なのは、カルパッチョの場合には、その絵がまちの織り目のなかになだらかに組み込まれて、この特異な都市の生命をともに生きていると感じられる点である。京都の古都に琳派のふすま絵が似合うように、ヴェネツィアには、カルパッチョの幻想と現実の意匠が、しっくりする。」 と述べ、彼の作品を鑑賞していく。 なかでも注意深く鑑賞されているのは、コッレール美術館にある「二人のヴェネツィア女」。この絵が克明に説明されていくのだが、その行きつく先は、二人の女の眼差しについての考察である。このあたりは秀逸な思考の軌跡を示していて胸がすく。 「・・・しかし二人とも、画面の外にある、何かわからないものをみつめている。二人のゆったりとした姿勢から推して、その視線の対象は、平常から見なれている、したしみ深いものであるらしい。もし人間であるとするならば、目を伏せたり視線をそらしたりして、尊敬やはじらいやコケットリーを示す必要のある相手ではないのである。しかし、何なのだろう。日常的なもの、あるいはできごとで、これほど二人の女の注意を、同時に強く、惹きつけることができるのは?」 「自分の前にあるものにあまりにも気をとられているトゥレㇽラ家の女たちは、画面の手前で彼女たちを眺めている私たちの視線に対しては、無防備に身をさらしているように見える。手前の女は、ゆたかな胸の谷間をのぞかれているのもかまわないようだ。彼女たちが私たちのことをまったく意に介していないために、閨房をのぞき込んでいるような印象が一層、強まらずにはいない。画面の外をみつめている女たちの視線のはげしさは、また、彼女たちを見ている私たちの視線を意識させずにはおかないし、さらに、私たちの背後か頭上か、どこか見えない位置にいる〈何者か〉の視線さえも、空想させる。」 「私たちが二人のヴェネツィア女を無遠慮に見ているように、別の視線が、絵に心奪われている私たちの不用意な姿を、二十世紀末の日常の書割りのなかにおいて、まじまじとみつめていないとも限らない。」 「二人の女の視線の先に何があるのか、ついに知ることのできない不思議さが、私たち自身の視線を、そしてまた私たち自身が受けているかもしれない視線を意識させ、この現世的なものに徹しているかのように見える絵を、永遠の世界にむすびつけている。」 この「二人のヴェネツィア女」が、実は、ポール・ゲッティ美術館の『ラグーナ(潟)での狩猟』と、元は一つの作品であって、のちに上下に切断されたものだったことがわかっているが、『ヴェネツィア暮し』の元版のころは知られていなかった。平凡社ライブラリー版のあとがきで、彼女はそのことに触れて、 「切り離された部分は、行方不明のままであってほしかった。ひろびろとした自然のなかで自由に動きまわっている男たちを背景に置くと、檻のようなヴェランダの手すりに囲われて、犬や鳥たちを話し相手にしている二人の女は、これまでの印象とは違い、むかしの女の運命の枠のなかにはっきりと位置づけられて、さびしく見える。彼女たちのいる世界は、謎のままであってほしかった。そしてその視線の謎に、私たちを誘い続けてほしかった。」と述懐している。
by loggia52
| 2011-08-20 11:34
| 美術
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