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それにしても、高橋悠治のピアノのクリアで生き生きした音楽は、いつも新鮮に響く。現代音楽のピアノを多くは聴いてはいないが、彼のピアノは、すぐれた現代詩のみずみずしいのを読んだ時のような感慨に導いてくれる。 新潮社の雑誌「考える人」の2009年春号に、彼が小沼純一のインタビューに答えた記事を読んだが、やっぱりすごい来歴だ。その一部を引用してみる。 母親はピアニスト、父親も音楽雑誌の編集をしていたという音楽環境のなかで育った。 「小沼-そもそも音楽家になろうと思ったのはいつでしたか。 高橋-七歳ころだったと思う。両親の知り合いに作曲家が何人かいたからね。父親の関係でいうと、信時潔とその弟子たち。そういうこともあって、いつの間にか作曲家になろうと決めていた。 小沼-最初から、ピアニストではなく作曲家なんですね。 高橋-ピアニストになりたいと思ったことはなかった。(略)小学校の頃はあと、團伊玖磨にも作曲を習った。やっぱり放送局の仕事かなんかで東京に行って帰って来ないから、待っているあいだに、押し入れのなかにある楽譜を引っ張り出しては眺めていた。(略)今回の録音(「バルトーク初期ピアノ作品集」2009年)で最初からやりたいと思っていたバルトークの「バガテル」も、團伊玖磨の家の押し入れで見つけたんじゃないかな。当時は楽譜なんか売ってなかったから、「月に憑かれたピエロ」(シェーンベルグ)は音楽帳に全部書き写した。」 柴田南雄に中学3年生の頃に作曲を習い始め、できたばかりの桐朋学園の高校に通うようになる。そこには、吉田秀和、加藤周一、丸谷才一といった錚々たる俊英が教師としてひかえていた。ジョイスの『フィンェガンズ・ウェイク』の研究会をやっていた丸谷の家に遊びに行ったり泊まったり、「仲間みたいな感じだった」。 1958年に草月アートセンターができた。その頃は40代の柴田南雄、入野義朗。諸井誠、黛敏郎、武満徹は30代、高橋悠治はまだ20代前半。 当時、現代音楽を弾くピアニストがいなかったので、現代音楽をよく弾くようになっていったという。 「小沼-でも自分の認識としてはピアニストではなく作曲家だったんですよね。 高橋-そう、自分ではずっと作曲家のつもりだった。ピアニストとしてはレパートリーもなかったし、いつもちがう曲を弾く仕事だったし。 小沼-弾く機会があれば、たいていのものは弾けたわけでしょう。 高橋-いや、ブーレーズは弾けるけど、ショパンは弾けなかったんだな。(笑)」 1963年に海外へ。きっかけは、草月アートセンターでクセナキスに会い、その後、彼にピアノ曲(「ヘルマ」)を委嘱したことから、クセナキスに師事するようになり、ベルリン、ニューヨークへ。「現代音楽ばかりを弾いていた」。 現代音楽のピアノの弾き方についての興味深い発言。 「小沼-現代曲と、19世紀までの、あるいは20世紀初頭までの曲とでは、弾き方がかなり違うということですね。 高橋-それは違うよね。クセナキスの「ヘルマ」は難しくて、一ページに一日くらいかかって、一ヶ月でようやく弾けるようになった。でもヨーロッパでは、こんな曲はとても弾けないということになっていた。ブーレーズの「ピアノソナタ第2番」をツアーでひと月のあいだ毎日弾いていると、ほかの現代曲はどれも優しく見えるわけ。 でも、オクターヴのパッセージなんかは弾いたこともなかった。ボストンでバーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」のソロピアノを弾いたときは、(略)急病のフィリップ・アントルモンの代役で、指揮は小澤征爾だった。それ以後は、オクターヴも弾けるようになったわけだ。(笑)」
by loggia52
| 2012-01-18 01:34
| 音楽
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