|
カテゴリ
全体 Loggia/ロッジア 『石目』について ぼくの本 詩集未収録作品集 詩 歌・句 書物 森・虫 水辺 field/播磨 野鳥 日録 音楽 美術 石の遺物 奈良 琵琶湖・近江 京都 その他の旅の記録 湯川書房 プラハ 切抜帖 その他 カナリス 言葉の森へ そばに置いておきたい本 未分類 以前の記事
2024年 04月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 more... フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
![]() 授賞式では、細見さんにとってお二人の《師》、一人は詩人の金時鐘さん、一人は大阪大学での恩師、徳永 恂さんのスピーチがそれぞれ印象的だった。金時鐘さんは、、戦後、大衆から見放され、さらに3.11以後においては閉塞した感の強い現代詩にとって、細見さんの詩の平明さ、素朴さこそ、これからの詩の灯りとなるであろうというお話をなさった。丁寧に詩集を読んでの金さんのスピーチをうかがいながら、昨年の11月に東京であった季村敏夫さんの花椿賞の授賞式での氏のスピーチを思い出していた。奇しくも、金時鐘氏を要(かなめ)にしての細見和之、季村敏夫という《詩人のトライアングル》は、思えばこの関西という風土に根ざしたことばの強さを象徴しているように思う。それは言い換えれば、詩の思想性の強さにあるということである。ただし、思想性というのは、政治的な立場やイデオロギーとしてのそれではない。日常に根ざし、日々の生活の機微に繊細に反応する思想性とでも言おうか。あるいは、自分の息づかいと他者の息づかいが重なり合う範囲において培われた思想性。季村さんの詩の視座を、ぼくは「ほとりの詩学」と呼んだことがあるが、細見さんの場合も、例えば彼のアドルノ論が、ジョーン・バエズの「ドナドナ」から語り出されるように、何気ないごくふつうの人間のあり方や思いの機微のなかから、ヒトの存在の闇や世界についての問いを紡いでいく詩法は、季村さんのそれと共鳴しあう部分がある。 はじめてぼくが細見さんと出会ったのは、確か神戸の旧移民センターで開かれたイベントの時だったと記憶する。ちょうどそのときも、細見和之、季村敏夫、金時鐘の三人の詩人の朗読に、サックスの港大尋が絡むというとてもおもしろい催しだった。金時鐘さんのお話もそのとき初めてうかがって、感銘を受けたのを今でも思い出す。ただし、氏のお話は、ぼくには耳の痛い内容で、それ以来幾度もお話をうかがいながら、いまだにお声をかけることができないでいる。それはともかく、細見さんはそのとき、パウル・ツェランの詩をイディッシュ語で朗読なさったと記憶する。その朗読に、ぼくは頭の芯にまでひびくような感銘をうけた。詩はことばであることはあたりまえかもしれないが、ことばは意味ではない、少なくとも意味を指すだけのものではない。同様に詩は意味を超えてなにものかを伝える力を持つということを強く思った。 ![]() 大学時代の恩師である徳永氏のお話も、「フモール」を交えて、実に愛弟子に対する愛情のこもった、いいスピーチだった。とりわけ、徳永先生らとの調査旅行の途上で、ヒマラヤを見にダージリンに行った時のお話。1台分しかタクシー代がなくて、一番若い細見さんは車の座席には座れずに、トランクの中に押し込められてダージリンまで行き、カンチェンジュンガを遠望したというエピソオドはよかった。さらに、詩と、思想・哲学の二つながらを生きる愛弟子にたいする愛情あふれる励ましのことばを聴きながら、お二人の師弟関係にうらやましさを禁じ得なかった。ぼくはとうとう、このような師弟関係を結ぶような師とは出会うことはなかったこを、今更ながら悔やむばかりだ。
by loggia52
| 2012-04-08 01:23
| 詩
|
Comments(2)
|
ファン申請 |
||