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![]() この3人の詩人は、詩誌『びーぐる』の編集同人だから、いわば《びーぐる派》の詩人と呼んでもいいような気がするほど、共鳴しあう部分を持っている。まあ、それはともかくとして、今日は、『いつか別れの日のために』(澪標)について、メモを取ったのを記す。 春と習字 春という字を見ていて これは 三と人と日からできているんだと気がついた 三人の下に日があって 春になる 君と僕のほかにはここに人がいないので ここは いつまでも春にならない のだろうか 春にならない家で 君はメールを見たり 本を読んだり 僕はメールを見たり お酒を飲んだり たまには詩を書いたりもして ときおり ここへ来るはずだった もう一人のことを思い出したり しながら 僕は 書き損じた春を 何枚も何枚も まるめてはゴミ箱へ捨てた どのことばも易しい。描かれている詩の世界も詩人の日常の何でもないひとこまをベースにしている。にもかかわらず、この詩の場合は、最終連に、心の埋められない隙間がのぞくことによって、一気に詩はもう一段、深い層へと静かに読む人を導いていく。だれもが思い当たる情感である。どんな人でも、自分の体験や経験を手がかりに、詩の世界へと入っていくことができる。それが高階の詩の強みである。とはいうものの、それは詩が想像力の強度を持っていないと人の心を動かすことはなかなかむずかしい。彼は、そのむずかしさを感じさせないで、その困難なことをやりおおせている。詩の技術的な巧さもそれを可能にしている大きな要因として挙げられることも指摘しておきたい。 この詩集は、『早く家へ帰りたい』(1995年刊)という詩集、さらに『夜にいっぱいやってくる』(1999年刊)に引き継がれたモチーフ、すなわち、それらの詩集から伏流していた、子供を失ったかなしみが、かたちを変えて詩人の心の岸に流れ寄っている。しきりに登場する飼い犬は失った子供の影を帯びているのは言うまでもないだろう。あらたに以前の詩集から加わったのは、自らの死についての思いである。 こうした、深い喪失感と、それと交差する自らの死に対する感慨が、静かなノスタルジアの情感を掻きたてる。さらには、どう言えばいいのだろう、自分が生きていることに対する潜在的な含羞とでもいうのだろうか。うしろめたさというのだろうか。それが詩を書かせるのだと思う。書かないでは、生きてはゆけないような自分にひそむ含羞が彼のことばを生かしめている。そして、この詩集ばかりでなく、彼の詩の特徴である、誰かに静かに話しかけるようなスタイルが、そうした含羞を包み込むのにうまく作用している。 もう一つ、これはさらにいい作品。 ガリガリ 庭で遊ぶのにあきると 犬は おうちにいれて と縁側の戸をガリガリします もっと外で遊んでいなさい と言ってもききません いれてもらえるまで ガリガリします 障子や網戸は破れ 犬はうれしそうですが 人間は何だか落ち着かなくて困ります 静かなお昼 障子や網戸の破れた家で ひとりでご飯を食べたりしていると どこからか ガリガリと戸をひっかく音が聞こえてきます 縁側からではありません 犬と私はふり返り じっと耳を澄ませます それはどこか遠くから おうちにいれて と 聞こえてきます
by loggia52
| 2012-09-04 00:02
| 詩
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