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![]() 演題は《詩と歌のあいだ》。 神戸と言えば、若いころよんだ竹中郁の『象牙海岸』の詩を思い出すという小池昌代さんのお話は、長く詩を書き続けてきた今、日本語への好奇心が、垂直方向と水平方向の、ふたつの方向に広がっているということについて。以下、講演の概略をメモしておく。 「垂直方向というのは、古典への興味、特に、年を経るにしたがって、短歌への興味が湧いてきた。日本の詩歌のへそにあるのが和歌ではないかという思いが強くなって、読みたいという思いにかられている。なぜ、定型への興味がわいているのか、そうした和歌を読みたい欲望がわいてきたのか、不思議でならない。現代詩を書くうちに、短歌や俳句のような定型に浸食されてきたという感じがする。短歌を読んでいると、ぐにゃっとして身のうちにふーと入ってきて何かをうばってふーっと消えていく。 短歌に潜むそのような呪縛力、それは現代詩にはない。その力とはなんだろうと思う。しかし、わたしには短歌は書けない。《乱詩の会》に入って俳句や短歌を作った経験から、定型に体をならさないといけないと思った。とりわけ、短歌がむずかしい。先人をなぞったようなものしか書けなかった。その時、現代詩に立脚しながら短歌を考えようと決心した。現代詩を書くものとして、俳句や短歌を楽しんで読んでいる」 「古典へとさかのぼっていく詩歌への興味と同時に、水平に広がる詩歌のありかたへの興味がある。まず、国内における水平方向への興味。たとえば方言について。 関西弁の話。島田陽子さんの詩など、いろいろな方言詩の魅力をもっとクローズアップして見ていきたい。 方言によって、テキストが開かれていくということ。盛岡弁で宮沢賢治の詩を読むことによって、よくわからなかった賢治のテキストの外側の皮が剥がれてくるということがある。また、外国の詩人たちの声を聞くことによって、詩人の声と詩がくっついて、理解できなかった詩人の詩が自分に近づいてくる。わかるようになる。you tubeでエズラ・パウンドの声を聴いたとき、とても遠かったパウンドの詩がぐっと自分に近づいたという思いがした。声が、テキストにくっついている皮をとってくれて、詩が近寄ってくるということ。 「南と北に魅力的な詩の宝庫がある。まず琉球歌謡。沖縄の音楽に強くひかれる。レとラが抜けた音階に、なつかしい、なにか訴えかけるものを感じる。また、北のアイヌの文化。日本語を考える時に、絶対にこうした沖縄やアイヌのことば(うた)を含めて考えないといけない。知里幸恵の『アイヌ神謡集』の話。麻生直子さんのこと。「サケヘ」(アイヌの口承文学の中で繰り返し出てくる言い回し)と呼ばれるもの。たとえば、「シロカニペ ランラン ピシカン コンカニペ ランラン ピシカン・・」シマフクロウの神が歌う冒頭の文句。耳についてはなれない歌。翻訳すれば、「銀のしずくふるふるまわりに・・ 金のしずくふるふる まわりに」。音そのものを楽しめる魅力がある文句だが、こうしたくりかえしがなぜ歌にあるのか。枕詞、序詞のように、意味がわからないものだが、神がこれから歌うという名乗りであると同時に、もとに戻る目印のはたらきがある。声とかたち、声だけで聴いていると、どこからどこまでがどうなのか、わからなくなるので、くりかえしの目印が歌には必要になる。 現代詩はこういうくりかえしの文句は避けてきた。現代詩は、歌を遠ざけてきた。歌を拒否してきた。 「短歌には、何かを呼び出すための枕詞、序詞というような装置がたくさんある。「歌合わせ」に見られる虚構的な演技的なものが和歌にはずいぶん強い。現代詩はそういう演技性をとおざけてきた。 人麻呂がはっきりとした虚構意識をもって歌を作った最初の人だという人もいるが、演技性や虚構性が短歌の源にある。現代詩は、自分を歌うのではなく虚構を書くべきではないか。現代詩が弱くなったのは、個人の声を強く主張するあまりに(我を歌うことに一生懸命になるあまり)、虚構を薄めてきてしまったためではないか。 パブリックな詩人(人麻呂的な詩人)=自分のことを書くのではなく、パブリックな立場で詩を書く人は、今の詩人でいえばだれになるだろうかとかんがえると、たとえば谷川俊太郎はパブリックな詩人ではない。 それに対して、大岡信はそうしたパブリックな詩人になるのではないか。彼の詩は、ざっくりとおおまかに、わかりやすいことばで書いているところがある点。また、だれかに捧げる詩が多いことも、パブリックな詩人の特徴。地名に歌わせたり、物に歌わせたり、誰かのために詩を書いたり、自我は眠らせておいて、詩の対象になったものを浮かびあがらせるというのが大岡の詩の特徴。現代詩は、どちらかというと、するどく自分の声をあげてきた詩に光を与えてきたのではないか。そういう観点から、現代詩人として大岡信をみたときに、評価は十分されてこなかったのではないか。 詩の公共性は、平凡、ありきたりなもの 使いふるされてきたものを利用しなければ、広く多くの人に伝わらない。けれどもそうすると詩は常套的になりつまらないものになるというアンビバレントな問題がある。 「連詩の経験から、自我がとんがっているものを書いてしまうと、次の人が書けない。ふあっと書いて、捨て石や踏み台のような詩を提出すると、次の人へうまくまわっていく。自我をひっこめたり出したりして、月並みをおそれない。そこに波動が生まれて、詩のメリハリがうまれる。 「連詩の問題点。第三者には面白くない、しらける。外側からみているとジェラシーがはたらいて、その人たちだけがみょうに楽しくやっているように見える。やっている人たちが、作者であり読者であるがゆえに、閉じている。どのようにして読者に開いていくのかが課題。 「最後に、わたしの場合はどうなのか。今は、散文に接近したかたちで詩を書き続けるしかないと思っている。詩が散文化していると言われるが、それが今のわたしのぎりぎりの詩。こういうかたちで詩を書いていくしかない。」 小池さんの講演は、北村太郎の全詩集から、今日の講演のテーマにかかわるような内容の詩『雨の腕』を朗読なさって、終わった。
by loggia52
| 2012-11-22 01:09
| 詩
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