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そこで、三浦雅士の『自分が死ぬということ』(1985年筑摩書房)という本を見つけた。《読書ノート1978~1984》と副題にあるように、前半は、今井裕康のペンネームで『レコード芸術』に書いていた文章である。これが読みたかった。 「『あとがき』を読んで、私は深いため息をついた。今井裕康は、三浦雅士の筆名だったのである。そうか、そうだったのか、いやそうでなくてはいけない、と思った。思いはしたけれど、そのため息の内実を話せる相手は、ずれを含んだ《もうひとりの私》しかいなかった。」 この二人をつないでいるのが宇佐見英治。三浦は『ユリイカ』の編集者だった当時(20代である)、月に一度、宇佐見と会っている。彼は宇佐見英治のことを先生と呼び、交流していた期間を、「あの至福の時間」とふりかえっている。なくなる少し前に、三浦は宇佐見に会っている。その別れ際に「堀江敏幸という作家がいるでしょう、この頃、文通しているんですよ。」と告げられる。そのあとを本文から引く。 「私は、不意に真横から大きな窓になって、そこから一陣の風が爽やかに吹き込んできたように感じた。 『ああ、そうか、そうなんですか』 私は驚いた後に、たとえば文体において、あるいは内容において、それがとても自然であることに納得していた。そして、もしも堀江敏幸によって宇佐見英治が描かれたらどうなるだろうと想像して、微笑したのだった。」 長々と書いたのは、この二人の文章の呼吸が実にぴたりと合っているということ。もちろん、合わせているのは堀江敏幸のほうである。まるで歌仙の附け句の妙を思わせる。 三浦雅士の解説も、しなやかな変化球で、さいごにどすんと切れ味の良いシュート。「堀江敏幸は、不幸の縁に、こまかい砂粒のような幸福の輝きをまぶしてゆく」という『おぱらばん』についての評言は秀逸。その三浦の文章の呼吸を受け止めて、まるでその骨法を手本にしてなぞるように、堀江は、宇佐見英治と自分との文通を紹介してもらったことを受けて、今井裕泰が三浦雅士だったことを知ったときの驚きのエピソードで答えてみせたのだ。両者の引用部分、「『ああ、そうか、そうなんですか』 私は驚いた後に・・・」という三浦雅士の口吻を受けて、堀江敏幸は「そうか、そうだったのか、いや、そうでなくてはいけない」と返すあたりは心憎いばかりである。 文庫本の「解説」と「あとがき」だけで胸躍らせるというのも妙な話だが、本屋の立ち読みでも可能な二つの文章を、ぜひ味わってもらいたいもの。『書かれる手』堀江敏幸(平凡社ライブラリー2009年10月刊)。
by loggia52
| 2012-12-27 20:10
| 書物
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