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![]() 先だってのブログで、堀江敏幸と三浦雅士をつなぐ人物として宇佐見英治の名が挙がっていた。 彼の新しい本が出る度に読んでいた。1970年代から80年代にかけてのことだが、本棚から抜き出してみると、4,5冊でてきた。 『迷路の奥』(みすず書房1975年)、『石を聴く』(朝日新聞社1978年)、『夢の口』(湯川書房1980年)、『雲と天人』( 岩波書店 1981年)、『方円漫筆』( みすず書房 1992年)など。 どういうわけか、宇佐見英治のような散文のスタイルがぼくは好きで、様々なジャンルの芸術や思想、その思想も哲学的に流れるよりは、ポエティックで豊かな発想と洞察をもって、西洋・日本の美意識や精神の動静について示唆にとむ思索のことばを紡いでいくというスタイルに魅かれる。(吉田秀和もそんな一人だ。) 論理と論証をこれみよがしに粗雑なことばの手続きによって仕立てられた批評が最近目立つけれども、宇佐見英治の批評(エッセイ)は、論理の流れが、たゆたうように進む。ときにはその流れをいったんとめてでも、自らの感性の赴くままに、それをことばの運動に委ねて憚らない。たとえば、 「六叉路のはし、ヴァヴァンのメトロの穴を出たところに横断歩道がある。昼間は仕事に追い立てられてせかせかと渡る人たちが、夜になるとひとりびとり、まるでこの世界にはそこしか行き場がないというように、青い信号の向こうに吸われていく。昼の光は影を落すが、闇は人を吸いとる。夜更けになると、人々は、ジャコメッティのブロンズ像のようにいよいよ痩せ細り、おのおのが廃墟の闇にかえってゆくのだった。」 これは『法王の貨幣』というジャコメッティの芸術について書かれた文章の最初のほうだが、パリにいると、妙に数を数えたくなるというハナシから始まって、次にこの引用部分につながるのだが、ようやくジャコメッティのことが話題にのぼったと思ったら、まだ、本題に入らずに、次のように続いていく。 「私はパリの町には夜がどこよりもゆっくりと蔽いかぶさってくるように思った。夕ぐれどき、ラスパーニュ通りとモンパルナス通りの辻角にあるカフェ『ロンプワン』のテラスに私は坐っているのが好きだった。歩道におかれた籐椅子の一つに坐っていると、夕闇はまずマロニエの葉蔭から、まわりの椅子の脚もとに下りてきて、通行人や佇む人々の背後にわだかまるのだった。空には雲塊の間に蒼ざめたブルーが一ひら見え、巻きがった雲の裏側が明るい珊瑚色に染まっている。ここにいると次第に濃くなってくる同じ夜が、遠い砂漠にも、船の上にも、どんな町の窓ゝにも訪れていることが感じられた。しかし時には緋色から紫紺へ、それからきゅうに緑がかった黒へと移ってゆく空の変化が、まるで舞台の書割のように妖しく感じられることがあった。ここにいるのは夢でも幻覚でもなく、まぎれもない現実であると感じるためには、長い時間がかかった。」 このこまやかなディティールの描写、それが実に的確でことばの運びと彼の目の運びが自然に読む側に入ってくるように書かれている。このような批評なりエッセイのスタイルは、なかなか近頃は目にしなくなった。 宇佐見英治の思索の核は、「見ること」と「夢見ること」という二つのモティーフの対立と競合によって組み立てられている。おそらく前者はジャコメッティの芸術、後者はバシュラールに拠っていると思われるが、彼は、この二つのモティーフを、次々と変奏させながら、建築や美術、西洋と日本の思想や美学、さらには物、とりわけ石(鉱物)や植物(主に樹)を巡って、美しい思索のことばを紡いでいく。 『石を聴く』は、そのなかでもぼくが最も好きな書物。石についての自由な着想の妙味と思索の展開のおもしろさに満ちた本である。『殺生石』は、石器について述べたものだが、この二つの作用が編み上げたみごとな思索のことばを味わってもらいたい。 「私はこれらの石器を見ながら、或るときは、多分だれもが思うように、遙遠の、もはや知覚しえない時間の深さを思った。また僅かなこれらの石器をたよりに怯えたり打倒されたりしながら、ときには餌食を射止め、むしゃぶりつくように肉をわけあった人々を想った。その闘争の血腥さや浅ましさ、卑賤と高貴が一体となった彼らの感情を思った。しかしまた私は一方でこれらの加工物を一箇の石塊としても眺めた。そしてたとえば稜部が強くうねった西洋梨形の握槌(ハンド・アックス)や黒曜石の刃部微光に見入りながら、これらの石器をどんな現代のオブジェよりも美しいと思った。このわずかにかき削られた石片は、高層ビルの前庭に置かれたどんな現代の石彫より岩石のものの声を鏘々と響かせる。人間の手がいわば過剰な肉を削りとったといえ、石の流理、晶面に漂う光は、石の闇中からくゆり出た夢の火のようだ。」 ほかに、彼の座右にある美しい鉱物のことや、宮沢賢治や、雪舟とセザンヌの石をめぐる興味深いエッセイ、芭蕉の句など、洋の東西、時代の新旧、ジャンルの相違を問わずに横断的に石についての思索が終わりなく続いていく。 ここまで書いてきて、確かに三浦雅士の批評のスタイル、すなわち、舞踏についてのエッセイや、「青春の終焉」から「出生の秘密」、「人生という作品」にいたる道筋は、宇佐見英治のスタイルを継いでいるのだということに気づいた。
by loggia52
| 2013-01-02 22:27
| 書物
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Comments(4)
宇佐美英治、矢内原伊作…思い出すと、幸福感に満たされます。だいすきだった本たちのこと、普段はすっかり忘れていたり。時里さんのこのページでまた、おもいだして…柿の木の写真、とてもよかったです!コハクチョウは今日もスイスイおよいでいるのかしら。
今年もお写真と詩のことば、楽しみにしています!
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なえさん、おめでとうございます。コハクチョウはちょっと数が少ないですが、飛来しています。ただ、池に行けばいつもいるというわけにはいかなくて、カメラを忘れた日にはいつもちゃんといるのですが。
pretty-bacchusさん。お読みいただき、ありがとうございます。『迷路の奥 』(みすず書房1975年)は、今は絶版で新本では手に入らないと思います。古本で探すことになると思いますが。
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