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![]() 『ア ナザ ミミクリ』というタイトルの中に「ミミ」が挟まれているからではないが、藤原安紀子は、耳からことばを紡ぐ。《ことばの舞踏》とも、《声の舞踏》とも名付けたいような。 ところで、唐突だが、宇宙から降りそそぐニュートリノという素粒子を観測するために地下深くに井戸のような純水を貯めた水槽(カミオカンデ、これもなかなかいい名前)がある。くだんの電荷を帯びた粒子が水中を高速で走るときに発生する青白いチェレンコフ光 を検出しようというもの。地下1000mという深さを必要とするのは、ほかの宇宙線をさけるためであるという。 藤原安紀子の詩は、通常のことばの意味体系や秩序の支配を受けない、カミオカンデのような深い井戸にまでことばを引き寄せて、チェレンコフ光のようにポエジーに反応することばを待ち受けている。彼女の耳の奥に、その深い井戸がある。彼女の耳の感度、感性、言い換えれば言語感覚が秀でていることは、これまでの2冊の詩集でよくわかる。 今度の詩集で、彼女の耳の深い井戸で検出されたチェレンコフ光の一つが《ルカリテ》であり《イヲ》などという、蠱惑的な謎のことばである。それらが降誕する冒頭のプロロオグ的なフレーズはまさに、耳(声)の詩人の特徴が顕著に表れている。 ロロロ ロ ア ひとと 光りの棒が らせん描く視書へ射した 水の葉たたきに埋まっている みつけ て 水仙の群れもまわり つまれた標立ててこの (イヲ)は還ってくる ロロリホー ロロリ ーロロロ うたう口になってぼくが踏む口 になって散り ねむる(イヲ)を連れて径を またきこし ア やわらかい杖は曲がる こすり あわせて笑う ここえて不途 ロ ロ 音になり生まれてつたう (略) 彼女の詩が難解に見えるのは、そこから意味の体系や書かれている内容を読み解こうとするからである。少なくとも、彼女のテクストから、一つの旋律を聞き取ろうとしても無理である。作品を読んでいく端から、詩句の持つ意味の水は、テクストの砂地にしみこんでしまうので、テクストそのものから、書かれている内容を意味のまとまりとして読むことも語ることも取り出すこともできない。 「ひとまずほっとしました、ときみが言った。根分けされて馴染みのある川を過ぎたところ、あの建物には気心の知れた輩が住んでいた。木立の撓る音をつなげた耳でひろっている。台風のあと、風にもがれたかみが流れる橋の欄干に三体は立ち尽くし濁流をみた。ああ春が来たようだ、ひとまずほっとしました。みあわせ、互いに罵声を投げかけた。」 『イヲ/ルカリテ(**) 』 から 「4. メモリアル」全 この引用部分からは明確な筋や意味や文脈を測ることはできない。「ひとまずほっとしました」ということばの繰り返しによって、かろうじてつながっているだけのことばの断片である。しかし、読んでいると、そのテクストの背後に、物語のえも言われぬ気配や情動の切れ端が感じられる。 『イヲ/ルカリテ(**)』はこうした「10のパラダイム」の、物語の断片のようなものでできているのだが、そこには濃密な物語の気配が感じられる。何か息苦しいまでの叙情的な物語の切れ端があり、何かを希求する魂の彷徨を感じさせるものがあり、パセティックな心情の奥行きを記したものがある。後半のよみどころだ。もう一つ同じところから 「遅れて来た私は抜殻のことを考えている、スカラベの声も見捨てた。灰は歩いている。枯れかけたこころを枕へ横たえると底のあたりから、ほそい蔓の草が延びはじめていた。私も殺すと伝えたい。そうあろうとする一束の火と、歩くあなたの足。ただ軽やかに延べられるまま旋律は抜け、どんなに同伴したくとも、できないと吐くちから。返信は、言語を用い刻んでいけよ。夏の早朝、生まれた場所を見送った私たちは、てからてを辿り、吹きだまりのある小さな台所で、真紅の熟れた円い珠を水に浮かべている。私の記憶などない。そのひとも正座したひろい卓袱台のうえで、赤茶けた紙の姿で舞っている。」 『同』 (5. たくさんのことをもう憶えていない。ほんとうに憶えていない。) また、前半のクライマックスは、『ルカリテ*』の途中からの引用、 「(2行省略) ぼくらの母はみえなく落ちた葉の背骨をひとしく悲しみ、沈む光りがうごきだす空径のようだった。 延びやかに放たれる影ぼうしを生きものの環が追いかけるから、樹も蕾へ囁き歌がはじまった、ロンドだ! そう、きみは石灰の線とともにうねり束となる運動を涯てなくつづけ、光りのおもさと釣りあっている。」 畳み掛ける長い一行のフレーズが、クレッシェンドに5行続いたあと、ページを繰ると、 「ロンドだ!」 という一行がページ中央にあるだけ。さらに次の見開きページに目を移すと、左端に、行をあけた次の2行のみ。 のぼるひとはのぼるトリノメモをほらる のぼるひとはのぼるトリノメモをほらる 次のページには、すぐ右端に、次の2行 のぼるひとはのぼるトリノメモをほらっていた。和音のある 純正律の万年筆で一生分の手紙を書き絞るとまたほらるをする さらに次のページに飛ぶと、中央に次の三行 こしつのるかりてと ひとがのぼるほらる なかにいるのだろう さらに次ページに続くのだが、引用はこのあたりで止めるが、ページを繰って「ロンドだ!」の一行を目にして、さらに次のページの「のぼるひとはのぼるトリノメモをほらる」のリフレーンを目にしたとき、まるでジェットコースターの頂点から、一瞬の浮遊感があって、次のシーンへ渡っていくような、まさにことば(声)の軌跡にぞくぞくするような舞踏の妙味を感得させられた。 詩から意味内容だけを抽出して読もうとする人には、彼女の詩は難解にうつるだろう。つまり、彼女は、ことばの意味性をあえて犠牲にして、伝えたい何かがあるのである。伝えたい何かとは、意味内容としておそらく語る事が不可能なこと、ことばでは名指すことができないものなのだ。詩のことばから意味を辿っていけば、伝えたい何かはしぼんでしまう。 しかし、一方では、それはおそらくことばに擬態することでしか伝えられないこと。ことばでしか伝えられないものなのだ。詩でそれを伝えようとする精神性の強さ(それを祈りといってもいいのだが)こそが、藤原安紀子のポエジーの強さなのだ。 しかし、韜晦的な言い回しになるが、あなたの伝えたいことは何かと、もし彼女に尋ねたら、おそらく彼女は、この詩集を差し出すしか、その問いに答えられないだろう。彼女自身にもそれはわからないのだ。だからこの詩集を書く必要があったと。 彼女にとって、詩はおそらく、カミオカンデのように、人の心の奥深くにある井戸のなかで行うことばの実験の謂いでもあるだろう。
by loggia52
| 2013-02-12 00:07
| 詩
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