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![]() 古き靴小さき段差につまづいてとつとつとつと鳥逐ふ両手(もろて) 岡井隆の歌集『『Xー述懐スル私』の中の一首だが、思わず唸った。うまいなあと感心したのだが、「つまづい」た身体が、バランスを回復するために咄嗟に「両手」を突き出すようにして「とつとつとつと」つんのめった。ちょうどそれが「鳥を逐う」仕種そのものだったというだけの歌。しかし、小さな段差につまずいた失態から「とつとつとつと鳥逐ふ両手」という絶妙のフモールをひねりだした運動神経は尋常ではない。みずからの「老い」を戯画的に映し出して見せた自画像めいているが、歌の勘所は、実はそこにはない。つまずいた失態から咄嗟にでた仕種が「鳥を逐」っている恰好だと自嘲気味に歌っているようで、ほんとうは「鳥逐ふ両手」のポーズをせしめたわが身体に感心している、あるいはそういう反射的なポーズをとることができたわが身体を発見してよろこんでいるような気分さえ伝わってくる。(もちろん自嘲的なフモールの味を滲ませてはいるが) 長々とこの歌についての感想を述べたのには理由がある。実は、この歌が、岡井隆の昨今の歌や詩の意欲的な試みの自画像に見えてくるのだ。 乱暴に結論から言えば、段差につまづいてバランスを崩した身体というのは、短歌表現における口語的な言い回し、所謂ライトヴァースと呼ばれる一連の韻律的な試みや、ノンシャランに歌い捨てるような歌作りや、風俗や時代的な流行を旺盛に取り入れるといった姿勢になぞらえることができる。実は、そういう一見、近代短歌の道筋を踏み外した成算なき不毛な暴走と見えるかもしれないこの試みが、実は「鳥」=新しいポエジーを追い求めることに繋がるのだという確信的な方法論の表明なのではないかと思われるのだ。 「古き靴」が「短歌」を指すというのは穿ちすぎだが、80年代なかばからの岡井隆の「やわらかい」歌への変貌ぶりは、 人の生(よ)の秋は翅(はね)ある生きものの数かぎりなくわれに連れそふ 『マニエリスムの旅』 歳月はさぶしき乳(ちち)を頒(わか)てども復(ま)た春は来ぬ花をかかげて 『歳月の贈物』 歌はただ此の世の外の五位の声端的にいま結語を言へば 『鵞卵亭』 というような歌壇復帰後の70年代のみごとな秀歌を目にしてきたぼくたちにとっては、《つまづき》にしか見えなかった。あの岡井隆ですら《つまづく》のだと、ショックを受けた者も少なくなかったのではないか。 そこまでは言い過ぎだと言われるかも知れないが、少なくとも《つまづく》というのは、岡井隆の詩学のライトモティーフなのではないかとぼくはかねがね思っている。九州に身を隠して歌壇から離れたという実人生の《つまづき》ももちろん大きく作用しているに違いないが、純粋にに詩学的な領域だけに絞ってみても、この《つまづき》のモティーフの、岡井隆の詩学に占める位置は大きい。 例えば、今回の『ヘイ 龍 カム・ヒア・・』の中でも『つまづき』のモティーフは随所に見られる。ひとつは『両国国技館』で、さばいている力士の足に「つまづいて」土俵から転落する行司が取り上げられたり、若き岡井隆が斎藤茂吉の棺を担いで階段を降りたときのよろめきがモティーフになっている作品『大歌人出棺の図』などがあり、さらに「つまづき」を敷衍したような歌など。 ぼくには、70年代の成熟した短歌の実のりをほしいままにした岡井隆は、むしろそのことによって、短歌という詩形式そのものに《つまづいた》のではないかと考えている。 一つは短歌の未来についての懐疑。つまり茂吉以後の短歌を確実に現代短歌のフォルムとして一応の達成をなしたあとの短歌の行方についての懐疑。もちろん、その一つの答えは盟友とも言える塚本邦雄の短歌であるが、岡井は塚本の短歌の行方には懐疑的だったはずだ。 短歌の未来についての懐疑には、とうぜん31文字という制約もふくまれる。文語的な語彙や文法がなおも中心的であったことを考えると、これも未来をふさぐものとなるだろう。また、塚本的な短歌を採らないとするなら、短歌はどうしても「私=われ」の詩法に執着することになる。この強い私性もまた、短歌の未来を不安なものにする。つまり、短歌的な「われ」は、茂吉的な「われ」すなわち近代的自我=進化論的な自我(苦しみ、挫折し、そのなかから成長し、豊かになってくプロセスを辿るような自我)に縛られているということ。 このようなもろもろの短歌の属性が、岡井にとっては大きなつまずきとして自覚されたはずだ。80年代後半からの岡井隆の「やわらかい」うたは、彼が短歌につまずいて「とつとつとつと」身体を前のめりにして、鳥=短歌の未来を逐っているしぐさなのではないかとぼくは考えている。 (facebook)にも岡井隆について書いています。参考まで。 》
by loggia52
| 2013-08-17 23:21
| 歌・句
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