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暖簾や、ブロンズ、それからシンプルな掛け軸にしたてた縦長の型染めなど、彼のかたちをめぐる意匠について考えた。 望月さんのフォルムの淵源には何があるのだろう。彼の作品にある親しみやすさが、実は、それと相反するような孤独感を隠していることに気づかないだろうか。のれんや風呂敷やといった工芸的な〈用〉の作品の要素をもっていながら、望月の作品にはどこか見る者の視線が入り込むのを拒否するような閉じられた世界を持っていると思うのはぼくだけだろうか。万人になじみやすいフォルムでありながら、他者を寄せ付けないかたくなな孤独の芯のようなものが、そのフォルムに胚胎している。この親しみやすさと、孤独に閉じた世界とが奇蹟のように融合している不思議なフォルム、ぼくが望月の作品に魅かれるいちばんの理由がそこにある。 『道に降りた散歩家』(2000年偕成社)という望月の美しい画文集がある。画文集と帯文にあるが、詩画集と呼ぶ方がふさわしい。フランドルの古都ブルッヘの博物館にあるという、無名の画家の描いたヨブの肖像を見るために訪れた旅を題材にしている、型染と詩で織りなされた作品。そのなかに、こんな一節がある。 窓の数だけ雲が浮かんだ 雲の数だけ風が吹いて 風の数だけ木立が揺れた 木立の数だけ蔭が生まれて 蔭の数だけ鳥が休んだ 鳥の数だけ歌が流れて 歌の数だけ、私は息づいた ここには人は出てこない。しかし、濃密な人の気配がただよう。彼の孤独と、人に寄り添いたい(歌の数だけ 、私は息づいた)という思いの深さ。『道に降りた散歩家』は暗い冬のフランドルの古都(「死都ブリュージュ」の舞台でもある)という背景も手伝って、散歩家の孤独がひときわ印象深い作品集。望月の作品のすべてに、通奏低音のように染みている孤独感と、人に寄り添うことでそれを「よきもの」として肯おうとする精神の静かな対話を、ぼくらは彼の作品をとおして聴いている。望月の作品を見ていると、おのずと対話しているような思いにとらわれる。その対話の相手は、画のなかの人や動物や木や舟や建物に紛れた自分自身の場合が多いが、人は目や口のない影として現れ、動物や木や建物も、アノニムな、これと名指しできないものとして描かれているので、なんの装いもなく、アノニムな影として見る者はその作品の風景に溶けこむことができる。そこで、ぼくらは名前をこちらがわの世界において、無垢な人として入り込む。画のなかの人と肩をならべ、鳥の声を聴き、花を愛で、建物の扉をひらく。そのおりおりにおのずとことばが交わされる。 そうなのだ。望月の作品の究極はことばをうながすところにある。もちろん、そのために、彼は作品のタイトルを注意深く付けている。見る者の対話をじゃませず、画にすべりこんだ見る人の思いがことばをつむぎだす発火点となるようなタイトルを付けているのに気づく。たとえば、前回のブログに掲げた案内状の作品のタイトルは『私に届く声』というのだったが、見る者はそのことばをきっかけに作品と対話する。ただし、見ている時の「対話」というのは、ことばをかわしあうというのではない。作品に魅入って、かたちにまで届かない思いや感情を繭のようにくるむこと、それがこの場合の作品との対話。その繭玉は、いつしれずことばを紡ぎ出す糸を用意するにちがいない。
by loggia52
| 2013-09-01 19:57
| 美術
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