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講演会が二つ。初めは詩人の北川透さんの『詩と小説の境界-太宰治と三島由紀夫の詩的な資質について』。詩と小説の境界をめぐってのとてもぼくにとっては興味深いテーマ。 《境界》という概念が文化の領域において注目を集めるようになったのは、70年代、山口昌男の『文化と両義性』に見られるような文化人類学的な視点からの《中心と周縁》という構造、特に周縁(境界)の持つ生き生きとした流動的、祝祭的な運動性が、中心を生気づかせるという構造が注目されるようになってから。 文化の領域における境界は、異質な二つの世界の双方に新しい価値を付与し、お互いを活性化させる働きがある。詩も小説との境界を設定することによって、詩の新しいあり方を考えることができるのではないか。そのことを太宰治と三島由紀夫を例にとって、小説の側から考えようというのが講演の概要。二人の小説家の具体的な作品についての分析は省略するが、二人とも、詩と小説の境界のなかで、独自の小説の文体を編み出していったという内容。 * ぼく自身の散文スタイルの作品について少し述べておきたい。明らかに詩と散文の境界に意識的に身をおいて作品を書いているわけだが、それは、行分けの詩ではできないこと(詩における中心的世界に支配された領域ではできないこと)が、この境界(周縁)的な場ではできるという理由からである。ただそれだけのことである。 行分けの詩では、意味のつながり(語り)を切って、言葉のリズムを中心にした音楽的な要素を大切にする。言い換えると、意味のつながりの代わりにメタファーの力に重心を置いた詩の作り方をする。 しかし、行分けをしなくても、あるいは意味のつながりを切らなくても、言葉のリズムや音楽の要素は十分に表現できるとぼくは考えている。まして、メタファーと物語は食い合わせが悪いというわけではないはず。 文化人類学的な用語をあえて使えば、祝祭・遊戯・擬き・道化=つまり、小説に擬態したり、エッセイもどきや、自伝のマネをしたり、短歌や俳句で遊んでみたり・・・といった、言葉の祝祭的・遊戯的な行為、あるいはホンモノをまねたり、語りを、その人物を騙(かた)ることによって行ったり、ホンモノに身をやつしたり・・・・ そのようにして、行分けの詩ではできないことを、あえて詩から越境することをおそれずに行うことによって、行分けの詩(詩の中心的な世界)を挑発したい。挑発ということばが不適切なら、活性化させたいと考えている。(もう一つ付け加えると、ぼくの長い作品(『石目』は、散文詩ではないとぼく自身は思っている。これも《散文詩擬(もど)き》と名付けてもいいが、行分けの詩でも散文詩でもない、名付けることのできない《詩もどき》とでも言えばいいだろうか。 もちろんぼくはいわゆる行分けの詩も書いている。ぼくの書く行分けの詩と、この《詩擬き=散文擬き》との関係については、いずれ別の日に書きたい。
by loggia52
| 2014-03-17 22:41
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