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![]() ご存じのとおり、那珂氏は正字正假名を貫いた詩人だから、この詩集もすべて、正字正假名遣い。印刷は精興社、勿論活版である。装幀は吉岡實。 ![]() もう一つ、特徴的なことは、新しい詩集が出る度に、前詩集にはない言葉の世界を切り開いてきたということ。特に、『音楽』から『はかた』へ、さらに『空我山房日乗』へという展開には瞠目した。 大正期に、象徴詩派の詩風から口語自由詩へと大きく当時の詩壇が舵を切ったなかで、朔太郎が執着したこと、すなわち、詩の用語が文語から口語へと解き放たれ、「調子本位の詩」=七・五の音数律から自由になるとき、詩は何によって保証されるのか、用語は日常ふだんに使う口語で、詩行も七五から自由にということになれば、それだけでは「行分け散文」ではないか。詩を担保するものは何かという問いに対して、朔太郎は「音楽」こそ、詩を保証する要素だとして『月に吠える』を世に問うたとも言える。 つまり、詩の内容(意味)とそれを表現する言葉の「音楽(性)」とを融合的にとらえるところに詩の存立が保証されるということだろうか。本来的には、ことばの「意味性」と「音楽性」は一体のものだから、それを別々に分けて考えることは不可能であるが、戦後詩の主たる道筋は、音楽性を犠牲にしてでも、詩の思想(意味性)にこそ詩の本質があるとするところにあった。戦後詩の大きな流れを作った「荒地」の詩人たちの方法を手荒くいうとそういうことになるだろうか。 那珂氏が「荒地」の詩人たちに与しなかったのは、彼らのように言葉の意味性に信頼を寄せることができなかったからだ。那珂氏の詩を支えているのは、言葉は《虚無》と通底しているという感懐だった。これについては、かつてここで書いたことがあるので参照してください。 詩は虚無という底の抜けた闇のうちから生まれてくるようなものだという思いが、那珂氏にはある。そのような思いの根源にあるものとは何かを問うことはひとまず措く。 那珂氏は、その朔太郎の問題意識、すなわち、口語を使用し、七五の音数律から解かれた《詩》を、詩だと保証するものは《音楽》に他ならないとする詩意識を、朔太郎よりももっと先鋭的に、実験的に試みた。それが詩集『音樂』だった。これほど実験性をもちつつ、しかも完成度の高い《言語宇宙》を構築してみせた詩集は戦後詩においては希有のものだ。 那珂氏の『音樂』から『はかた』への詩的展開については、氏自身が明確に語っている。(「この三十年」を参照してください〈『時の庭』小澤書店〉所収)。高柳誠の言葉を借りれば《言》から《事》へ、言葉(の宇宙)から叙事(の世界)へという展開と言うことだろうか。ここでは『はかた』の次の詩集『空我山房日乗 其他』の詩的言語の試みについて少しメモを執っておきたい。(以下つづく)
by loggia52
| 2014-06-10 23:31
| 詩
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