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「無 名は青い絹の寝間着を着たまま、畳の上にべったり尻をつけてすわっていた。どこかひな鳥を思わせるのは、首が細長い割に頭が大きいせいかも しれない。絹糸のように細い髪の毛が汗で湿ってぴったり地肌に貼りついている。瞼をうっすら閉じ、空中を耳で探るように頭を動かして、外の砂利道を踏みし める足音を鼓膜ですくいとろうとする。足音はどんどん大きくなっていって突然止まる。引き戸が貨物列車のようにガラガラ走りだし、無名が眼を開くと、朝日 が溶けたタンポポみたいに黄色く流れ込んでくる。無名は両肩を力強く後に引いて胸板を突き出し、翼をひろげるように両手を外まわりに持ち上げた。」 まるで未知な生き物の誕生を描くような表現に注意すべきだろう。無名はすでにそれまでの人間の身体から脱皮しつつある姿として描写されている。このあと、「貸し犬」を連 れてジョギングしていた百八歳の健康すぎる老人、義郎が登場するのだが、この旧時代の人間と、次の世代のあらたな未知の人間のイメージと が、いきなり冒頭部分で対照的に描かれる。 そういう無名(あるいは子供たち)の身体や仕種のディティールについての表現が非常にこまやかで繊細なのに比べて、それ以外の近未来の状況を描く部分は、もっぱら言葉の喚起力 や、イメージを増殖させる言葉の運動に身をまかせて、かなり野放図な表現を許している。 言葉が持っている、この繊細さと荒々しさは、多和田葉子の言葉に込めた信頼のようなもののあらわれではないかと、ぼくは考えている。すなわち、この繊細さ、表現のしなやかさは、彼女の希望のあらわれにほかならない。小説の中で無名に込められた期待は、ストレートに作者、多和田葉子の希望の表現であるように思われてならない。例えばこんなところ。 「無名は暦の前を通る度に『ナウマン象』という言葉に釘付けになって、せわしくまばたきした。まるで言葉のそのものが動物で、じっとみつめてい ればいつか動き出すとでも思っているようだった。」「ナウマン象だけではない。サギでもウミガメでも、無名は生き物の名前を見たり聞いたりすると、名前の 中からその生き物が飛び出してうkるとでも思っているのか目を離すことができなくなる。」 「もしかしたら無名たちは新しい文明を築いて残していってくれるかもしれない。無名には生まれた時から不思議な知恵が備わっているように見える。これまで見えてきた子供たちには全くなかった新種の知恵だ。」 一方、言葉の喚起力を駆使した荒々しく野放図な使い方は、未知なもの、とらえどころのないものに対して、言葉は十分応えることができるという、言葉に対する信頼のもう一つの表明である。言葉遊び的な使い方や、漢字表記の怪異な造語や、外来語のねじれや、新しいものに対する名付けに見られる複雑な経緯など、総じて、言葉のゆがみやねじれや屈折が、読後に尾を引いて残るのは、多和田葉子の未来(未来は、実は現在の状況に地続きであることを忘れてはならない)に対する不安や危機の表明に違いない。 小説や詩には、いや美術や音楽作品もそうだと思うのだが、すぐれた作品には、どのような現れ方であれ、危機の記号として作用するというはたらきがあるように思う。混沌とした現在を追認し、そうした現在を定義するために小説や詩の言葉はあるのではない。未来(もちろん現在と地続きの時間ではある)の世界について、無意識的に危機のしるしをうずめている。 多和田葉子の言葉は、一方で、そうした危機の記号として言葉を発信しながら、一方で、繭の中に未来を育むことを忘れない。それがこの作品の場合、無名である。無名の姿がもはや人間を脱ぎ捨てて、鳥の雛のごとき描写をほどこされていることに注意しよう。そのメタモルフォーゼは光をもとめる能動的な行為であり、決して人間的な要素を失っていくという退行的なイメージではありえない。 (画像は「雲をつかむ話」、内容とは関係ありません。)
by loggia52
| 2014-08-22 14:04
| 書物
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