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![]() まず、鷲田清一さんのお話から。 現代の言葉を考えると、とりわけ政治の言葉(集団的自衛権についての首相の国会答弁や記者会見での発言)に集中的に現れていることは、ことばは滑らかだけれど、滑っている、ということ。あるいは、その答弁が誰に向かって発話されているのか、その宛先が感じられない。一方では、ヘイトスピーチのように、「投げつける言葉」も気になる。 そんな言葉の状況のなかで、人の心をひっかくような、さざなみをたてるような、ざらつきのあることばを大切にしたいと、鷲田さんは言う。 言葉にひそむ、そのざらつき、ひっかき、さざなみというのは、いわば、テキスト(言葉の意味内容)ではなく、テクスチュア(言葉の肌理、感触)のこと。 鷲田さんが幼い頃、母に変わって「おばあちゃん」が彼を寝かせるために本を読んでくれた。漢字が読めなくてつまったり、棒読みであったり、話が終わらないうちに寝てしまったり・・、おばあちゃんの読みは決して流暢でも上手でもなかったけれど、今まで朗読を聞いた経験のなかでは一番心に残っている。それは何故なのか。一日働いて疲れているのに、ぼくのために一生懸命に、こんな慣れないことをしてくれている、ぼくのことを大切に思ってくれているということを、おばあちゃんの語りのことばに感じたからにほかならない。 語られた話の内容(テキスト)が、人の心を慰めるだけでなく、言葉のテクスチュアでも、心は慰められ、力づけられる。 さらに、平川克美氏の言葉を引用して、「発話者が自分の言葉と身体感覚との間にある違和を自覚したとき、すなわち、言いよどんだり、ためらったり、逡巡したりする、そこには信じるに足る意味がある。」 この言葉と身体感覚との間の違和は、即ち《吃音》に通じる。その《吃音》のプロセスは、詩や歌や句をつくるプロセスと似ているのではないか。 武満徹は吃音を「意味が言葉の容量を越えるときに起こる」と言っているが、この言いよどむ、口ごもるというプロセスに詩がひそんでいる。 次に、自分も吃音だったとおっしゃる内田樹さんの話のなかで、興味を引いたところ。 「届く言葉、届かない言葉」というテーマでのお話。どんな言葉が届くのか、届かないのかということを、大学の講義や、合気道の指導の実践をとおして話をされた。 すなわち、届く言葉というのは、 ①ライブ音、今生きているもの、ナマのものを伝える言葉に敏感に反応する。 ②言葉やメッセージが自分宛のものだと確信できたとき。 ③身体にダイレクトに入る言葉-無いものを提示する、存在しないものにフォーカスすることによって、身体や感覚は、現実のしばりから解放されていく。 (存在しないもの、無いものをあると思って提示する。例えば、合気道の指導で、手を差し出すフォームについて、「家の軒下にいて、雨が降っているか見るために、手を出すようにしてごらん」と言うと、さっと意に叶うフォームができる。) (以下は時里の註釈)とくに、この③の場合は、詩や小説の比喩表現に典型的にあらわれる効果である。例えば多和田葉子の「献灯使」の次のような比喩。「無名が眼を開くと、朝日 が溶けたタンポポみたいに黄色く流れ込んでくる。」。「溶けたタンポポみたいに」という、存在しないものゆえに、理で咀嚼できないのでまるごとその比喩をイメージとして飲み込むしかない。すると、朝日が常套的なイメージを越えて生き生きと読み手の気持ちの中にはいってくる。この場合「タンポポみたいに」ではなく「溶けたタンポポみたいに」でなければ、現実のしばりが解かれた状態にならない。 もう一つ、内田さんのお話で注目したのは、言葉の多様な語義を、多様な語義のまま受け入れることの大切さ。 ともすると、多様で幅広い語義をもった言葉に対して、その意味を一義的なものに還元したい、縮減したいとする欲求がある。しかし、言葉が複雑な意味をもち、他者の想像力を動員しないと確定できないような言葉がある。そういう言葉の多義性を多義性のままに残しておくことが大事だというお話。 永田和宏さんをまじえての後半の内容については、またしばらくしてから書く。 ついでながら、実はぼくも、小学校5年あたりから、ひどい吃音で苦しんだ。ぼくの場合は、未だにその後遺症があって、まったく言葉が出てこないときがある。自分が詩を書くことを選びとったことと、吃音だったことは意識して結びつけたことはなかったが、お二人の吃音談義に思い当たることがないでもない。
by loggia52
| 2014-08-27 00:30
| 歌・句
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Comments(1)
小生の経験では「吃音」の方は=「芸術」に携わる方多い。
会話がそのため苦手でその間、心を育てているのではと思っています。ioggia貴兄で小生の知人では3~4人目だと思います。
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