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実は、まだたくさん、ブログに書かなければならない記事がたまっている。そのほとんどは季節にかかわることで、時機を逸すると、興ざめの感をまぬがれない。 ここは、花見をつづめて二題。そのおりの写真はフェイスブックに名残りのあととしていずれ留めておく。 ひとつは、ちかくの桜園の桜。ニシオジロビタキがふいとやってきたくだんの公園の桜。 桜園の桜というと、ぼくには東京の小石川の植物園の桜園が印象に残っている。ただし、花の季節には行ったことがない。葉桜の季節に訪れて、息を飲んだ。桜は花ではない。花は幻想であっていいのだと、小石川の桜園の色濃い樹影に包まれて感得した。桜は幹であり枝振り。その構造が花を幻想の装置となっている。そう思っていた。 その実際を、小石川でなく、わが隣町の桜園で確認することができた。 通常、桜といえば枝振りは水平にひろがり、花の雲をひろく地面に広げるようにして剪定されている。幹も枝も、水平に伸びていくのを意識させながら、樹はふくよかなひろごりを見せる。 ところが、ここの桜はまるきり違う。水平ではなく垂直。どの枝も空に向かって、空へ、空へと枝枝はのびやかに伸びて、それに花が付いている。あくまでも主役は幹や枝なのだということ。上方へ上方へと伸びていくがっしりとした骨組みの幹と枝の構造こそが、ここの桜の主役であり、花はそれらの樹影を彩る脇役に過ぎない。 ところが、ひとつ感動したことがある。それは、夜の花見客のつましさである。ライトアップされ、露天商もたくさんテントをたてているにも関わらず、おそろしいほど静かなのだ。広々とした駐車場は満杯で、花見客はおおぜいいるのに、まるで弔いの場にいるかのように静かなのだ。聞き耳をたてると、ひそひとと、だれもが意識して秘密の話をささやき交わしているように。 歌舞音曲の喧しい都会の花見しか知らないぼくには、この地方の、魂鎮めの祭にみんなが訪れているような印象だった。 柳田國男の「雪国の春」で、東北の寒村の盆踊りのさびしいふぜいを読んだことがある。祖霊の魂をしずかに迎える盆踊りの原型のような印象を受けたが、花見の原型をぼくは知らないが、やはり、向こう側の世界への騒ぎ立つような思いのほかに、向こう側に逝った知友や祖霊に会えるような幻想に、しずかに身を委ねるような時間が巻かれているような気がした。 二題と言ったが、一題目で言を費やした。二題目は次に。二題目は、嵐山の花見のこと。
by loggia52
| 2015-04-05 01:18
| field/播磨
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