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![]() それはともかく、『野火』や『風立ちぬ』を思い出させると言ったが、高橋の作品は、それらとは全く位相の違う小説であることを大急ぎで付け加えなければならない。 『指の骨』はニューギニアを舞台にしてオーストラリア軍との戦線で銃創を負って野戦病院で傷を癒やす日本兵の日常を描いている。ただし、おしまいの方の、野戦病院を出て行ってから後の「黄色い道」を行くシーンが、この小説の読み所で、それまでのどこか平穏な日常とは違う急展開を見せて、ここから読者は一気に激しく揺さぶられる。(このあたりの小説の展開の仕方は実に計算されていて、よくできている) 「耳元で二発、銃声が轟いた。撃たれたのは、私ではなかった。前方のタコ壺の縁で、田辺分隊長が銃剣を握ったままうつ伏せに倒れていた。軍服の背には赤い染みが広がっている。田辺分隊長に銃口を向けた姿で、一人の濠軍兵が草地に立っていた。濠軍兵は、まだ私に気づいていなかった。私は穴の中で槓杆(こうかん)を握り、穴の中で遊底を動かした。銃口を、穴の外へ出そうとしたとき、銃身がつかえた。痛みのために、私の左腕は大きく震えていたのだ。情けない金属の音が、穴の外に響く。その物音で、濠軍兵は顔だけこちらへ向けた。その年若い白人兵はきょとんとして、穴の縁から顔を出す私の姿を、青い瞳で見つめていた。私は引鉄を引いた。銃弾は若者の白い首の根に減(め)り込み、彼は英語で鳥の鳴き声のように何か喚き、血液の溢れる首筋を掌で押さえたまま、後方へと倒れた。死んだ。西の草地に黒い血が広がっていく。私はそれを見届けると、再び穴の中へと引き返した。」(『指の骨』) これははじめの方の部分だが、引用部分を写していると、一つのセンテンスが、どういうわけかリアルな戦争漫画のコマ割りの一つに見えてしまう。「軍服の背には赤い染みが広がっている」で一つのコマ。「その若い白人兵はきょとんとして穴の縁から顔をだす私の姿を青い瞳で見つめていた」で、大写しに一コマ全面に白人兵のきょとんとした顔を。同じように、うまくコマ割りできるように文が書かれている。迫真的な描写でありながら、うまく作られている。つまり、バーチャルなのだ。貶めて言っているのではない。おそらく高橋はそれを目指しているのではないか。戦争体験とはほどとおい世代(一九七九年生まれ)である。おそらく取材のなかでニューギニア戦線の体験を、生存者から聞いたり、証言資料にあたって、書いているのだろう。それを大岡昇平の小説と比較するのは、筋違いだろう。「新しい戦争小説」というコピーがあったが、それも違う。この小説に、戦争の非情さを人間の内奥にまで響くように突き詰めていく内的な動機が感じられないことをあげつらうことはあたらない。そこに高橋の主眼はない。 これだけの文章を書けるその技倆が、何よりの証拠である。彼は、戦時下の南方の島で特異な体験をした兵士を仮想現実として、言葉で写し取ろうとしている。それに腐心している。そこに高橋の試みのすべてがあるうように思う。戦争の非情さを告発したり、戦争という行為から人間存在の闇を見ようというのではない。それとはどこかちがう。 しかし、さっきも述べたように、日本兵の特異な体験を言葉によって仮想現実化するという試みは、決して貶められるべき志ではないということをもう一度繰り返しておきたい。それは、例えばアニメの世界で名高い戦争シーンが、迫真的だが、バーチャルだからだめだとだれも言わないのと同じである。あるいは、ピアノ曲を電子ピアノで弾く、といったことと似ているかもしれない。なぜそうする必要があるのかと言えば、電子ピアノの電気的な音の方に興味を示す聴衆が存在するからである。それと同じように、通常の小説の読者とは違う位相の読者がいるから、『指の骨』のような小説が生まれたのだと思う。テレビが4Kテレビの普及によって、よりホンモノに近い映像になったと言われるが、ホンモノに近くなるほど、異様な現実感-つまり、ホンモノにはない現実感が付着してしまう。それがバーチャルだと思うのだが、技術革新によって、ホンモノに近づくほど、現実のリアルとは位相の違うリアルさにどこかですり替わってしまうのだ。しかも、すり替わった方のリアルさにこそ、魅かれるという人たちがいるはずだ。小説も同じで、今までの小説言語とは、妙にズレていて、しかし、見た目(読んだ感じ)は、全くそれまでの近代小説の名文の味わいと紛うばかりであるという小説言語が、高橋弘希の小説言語なのではないか。 どこかで、上田岳弘の「私の恋人」の評で、この作家はピンチョンに化けるかもしれないというのがあったが、高橋も、あるいはピンチョンとは逆の、裏返った前衛小説家に化けるかもしれない。 『朝顔の日』についてはまた別の機会に。
by loggia52
| 2015-09-12 00:32
| 書物
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