カテゴリ
全体 Loggia/ロッジア 『石目』について ぼくの本 詩集未収録作品集 詩 歌・句 書物 森・虫 水辺 field/播磨 野鳥 日録 音楽 美術 石の遺物 奈良 琵琶湖・近江 京都 その他の旅の記録 湯川書房 プラハ 切抜帖 その他 カナリス 言葉の森へ そばに置いておきたい本 未分類 以前の記事
2023年 11月 2023年 10月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 more... フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
瀧口修造と武満徹との結びつきは、想像していた以上に深く、運命的とさえ言える。瀧口は真剣に武満を養子にすることを考えていた。武満の母に会って、その了解を得ていたという。結局それは武満自身が熟慮のうえで辞退するのだが、その理由を、彼は「小さな瀧口修造になってしまう」と答えている。 そのうちの一つ、結核が悪化していたときのこと。 1951年日本橋高島屋で読売新聞社主催の規模の大きなピカソ展が開催され、それに合わせてバレエの公演が実験工房のメンバ-によって企画される。そのドタバタぶりが、当時の前衛の剥き出しのエネルギーを伝えていて、息を詰めて読むことになる。ピカソの「生きる悦び」に題材を得たバレエを創作することになり、脚本は秋山邦晴が、音楽は武満と鈴木博義が担当する。武満は二十歳そこそこだ。ただ、この企画の話から上演までの日程が一ヶ月しかない。その間に脚本を書き上げ、オーケストラによる音楽の楽譜を作らないといけないわけである。とくに武満が担当した音楽が難航した。第一、オーケストラのスコアを書いた経験が武満や鈴木にはなかった。バレエの練習をするためには振り付けの関係もあって音楽がなければいけない。毎日徹夜である。そのときのことを武満は次のように回想している。 「ほんとうもうめちゃくちゃでしたね。毎日徹夜で、数時間しか寝ていないから、とても身体がもたないんです。そのころはぼくは結核がかなり悪くなっていて、背中がものすごく痛くて倒れそうだったんです。湯浅譲二のお兄さんが東大の医者で、それが毎日のように来てくれていろんな注射を打ってくれたんだけど、そんなものじゃどうにもならないので、町の医者にいって、覚醒剤のヒロポンを打ってもらったんです。いまじゃとても考えられないことだけど、そのころはその辺の医者に頼むと打ってくれたんです。(略)だけどその副作用で、突然よだれが出てきてとまらなくなったり、幻覚を見たりしたんです。ピアノの上のゴミがウワーッと動きだしたりするんです。気味が悪かったな」 オーケストラとの関係も、作曲が遅れるものだから最悪で、「とにかくみんな意地が悪くて、ほくをいじめるわけです。谷(桃子)さんなんか、見るにみかねて、可哀想、可哀想とさかんに慰めてくれて感激しました。」「ぼくの振る棒なんか無視してるんですね。勝手にやっている。注意しても反抗する。」 本番当日の模様を湯浅譲二は回想している。 「もうほんとにフラフラだったですよ。二、三日徹夜したあげく、最後の日は昼間二、三時間寝たきりで、ずっと仕事をし、夜は、ぼくや秋山や福島も手伝って、夜中中パート譜作りをして、それで出てきているわけです。倒れないほうが不思議だった。譜を渡して練習をはじめても、演奏家にはさんざん文句を言われ・・・まあ、武満はよく頑張ったと思います。だいたい指揮法なんて誰にも習ったことがない武満がオーケストラを振るのだけでも無謀なのに、それをスコアなしでやるなんて、ほんとうに常識では考えられないことでした。」 山口勝弘の話。「ぼく、北代さん、福島秀子さんの美術側は、朝のうちから舞台に装置をセットして準備がすべて完了しているのに、お昼になっても音楽ができてこない。もうみんなイライラしてたんです。(略)結局、ちゃんとした通し稽古なんかできなかったわけですから、実際に幕が上がるまで、どういう舞台になるか、誰もわからないわけです。今井直次が照明をやったんですが、音楽が遅れたもんで、照明は、音楽に合うか合わないかわからないまま、ぶっつけ本番でやってしまいました。」 しかし、日比谷公会堂で行われたこのバレエは興業的にも成功をおさめた。山口の証言を引くと、「照明がすごくよかった。実に見事に光を変化させ、斬新な舞台装置とあわせて踊りがなくtれも光の変化だけをスペクタクルとして見ていても十分面白いぐらいでした。」秋山の証言「舞台装置も、モビールなんか使って、みんなワーッと思ったんだけど、何といっても照明がすばらしかったですね。絵描きがいっぱい来ていたんですが、ライトがあんな色を出せるのかとあとでみんな不思議がっていあました。」 では音楽はどうか。秋山の証言「ステージ下のオーケストラ・ピットで、病人のような武満が指揮棒を振りおろして、オーケストラのひびきが会場に拡がったときの感動は、大げさのようだが生涯忘れることができないものだろう。それはおそらく日本で初めて鳴りひびいた豊饒な色彩をもった音だった。背中の激痛をかばうように、片手をうしろにあてがいながら、前こごみで弱々しく指揮棒を振る痛々しい武満のうしろ姿を客席の後部から見ていたぼくは、よかった、よかった、心の中でつぶやいていた。」(「瀧口修造と実験工房のこと」) 評伝には、この時の楽譜は残っていないとあったが、神奈川県立近代美術館の『実験工房展』の図録には、楽譜の一部が載っている。それから、そのときのパンフレットや舞台装置のモビールや舞台衣装のデザイン画などが写真に残されている。(上の2枚の写真がそれ。いずれも神奈川県立近代美術館の《実験工房展》図録より) 実験工房の活動は、このバレエの公演の成功を皮切りに活発に開始されている。「生きる悦び」の「二ヶ月後の一九五二年一月には実験工房第二回発表会として市ヶ谷の女子学院講堂で『現代作品演奏会』が開催された。」が、「園田高弘のピアノ、岩淵龍太郎のヴァイオリンなどを加え、メシアンの「ピアノ前奏曲集」と「世の終わりのための四重奏曲」、コープランドの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」などなど「いずれも日本初演の現代音楽ばかりだった。」この発表会には、「実験工房の造形グループが、会場にオブジェを飾ったり、舞台を特殊な照明でてらしたりという形で協力した。」「翌二月には、今度は造形部門が中心になって、『実験工房第三回発表会』が神田のタケミヤ画廊で開かれた。」 この二つの発表会はほぼ同時進行で準備が進められ、音楽のグループと造形のグループがいっしょになって活動しているのが印象的だ。例えば、音楽会のチケットのデザインなどは造形グループが作ったり、造形グループの作品の搬入などには武満や秋山が手伝っている。そういうインターメディア的な動きが実験工房の大きな特徴だったと、立花は指摘している。 それから、映画音楽のことや、ミュージックコンクレートのこと、それにジャズの影響、ジョン・ケージの影響など、とくに「ノベンバー・ステップス」までの武満の右往左往と試行錯誤と、自らの音楽に対する思索の遍歴はスリリングだ。「ノベンバーステップス」以後の武満は、いっそう作曲家というよりも、思索の人というイメージが強い。言い換えると、《ことばの人》の印象が強い。 片手間といっては申し訳ないが、武満の魅惑的な《うた》ばかりがクローズアップされてきたここ数年だが、ほとんど演奏されることのない重要な彼の楽曲が没後20年のメモリアルな年に日の目を見るかどうか。 立花隆のこの評伝のなかで、武満が亡くなったときのNHKの7時のニュースが、「NHKの連続テレビドラマ『夢千代日記』の作曲家であった武満徹さんがお亡くなりになりました。武満さんは、一昨年のNHK放送文化賞の受賞者でもあります』とだけ報じられたことを伝えている。 武満の音楽の前衛としての果敢な試みが、没後20年を経て、どういう答えを出すのか、興味深いところである。
by loggia52
| 2016-05-01 00:33
| 音楽
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||