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ダニエル・ヘラー=ローゼンの『エコラリアス』(みすず書房)は、訳者が詩人の関口涼子さんだということが読むきっかけになった書物だが、これは期待にたがわずというか、期待以上におもしろかった。何よりも、詩という行為の根源に触れるような内容を惜しげもなく次々と披瀝しつつ、関口さんがあとがきで言うように、「本書は「詩とは何か」、または「文学にとっての言語とは何か」という問いに正面から答えようとしている、または言語の忘却という空間そのものを本の中に作り上げることで、それ自体が詩である、とも言っていい存在をわたしたちに見せてくれようとしている」。 文章のスタイルも、学術書というよりは、言語と忘却を巡る興味をそそる挿話を断章形式で綴りながら、言語という不可思議な生き物の正体にせまろうというものだが、それは言語の謎を解くというのではなく、むしろその謎に、いっそう深く陰影をほどこすことをもくろんでいるようにさえ思われる。 冒頭の「喃語の極み」が、この書物のモチーフについてのたたき台のごとき基本的な断章。 ヤコブソンの研究を援用しつつ、赤ん坊の喃語には、あらゆる言語の発音能力が秘められていて、どんな発音についても、幼児はその全てをやすやすと発声することができるという。ところが、「幼児が本来の意味での言語的な第一段階で、様々な音を発する能力ほとんど喪ってしまう」のだ。以下、重要なモチーフを含むパラグラフを引用する。 「幼児は、「喃語の極み」において一時は発音していた無限の音の数々を忘却しなければ、ひとつの言語を特徴づける母音と子音の有限のシステムを身につけることができないのかもしれない。際限のない無数の音を失う、という代価を払うことなしに、幼児はひとつの言語の共同体内に正式な位置を占めることができないのかもしれない。 はたして、成人が話す諸言語は、かつてそこから生まれ出た限りなく変化に富んだ喃語のなにがしかを留めているだろうか。あるとしたら、それは谺(こだま)でしかないだろう。というのも、言語があるところには、幼児の喃語はとうの昔に消え去ってしまっているからだ。少なくとも、まだ言葉を話せない幼児の唇がかつて発した形ではもう残されていない。それは、他の言葉、あるいは言葉でさえない何ものかの反響なのかもしれない。谺する言語(エコラリアス)、自らが消滅することで言葉の出現を可能にする言葉にならない記憶の彼方の喃語の痕跡なのだ。」 それまでに身に負っている発音の能力や可能性を忘れること、あるいは失うことによって言語は習得される。言いかえると、身に着けた言語は、忘れられた発音の能力や可能性の谺(こだま)だと言うのである。重要なのは、忘れられてしまうけれどもその「痕跡」は消えないということ。 そのような言語のいとなみを、さまざまな挿話のなかで浮き彫りにしていくわけだが、ぼくらの言語も、それ以前の言語を忘れることで獲得された言語であり、今ぼくらが使っている言語には、その痕跡が谺として残っている――というモチーフには胸が震える。そういう言語のいとなみは、人間の意思がまったく制御できないことがらである。痕跡を残すのは人ではなく、言語の方だ。だから、「忘却する」という言い方はあくまで人を主体にしたもの言いで、言語の側から言えば、ずっと(忘却されずに)、次の言語のなかで生き続けている。 そのことをぼくなりにパラフレーズすれば、詩の言葉は、詩人が自在にその生命を扱うことはできない。《詩=言葉》は詩人の意思とはまったく関係ないところでその生命現象をいとなんでいる。むろん詩人と言葉との関わる部分はあり、詩人が言葉を書き付けなければ詩(言葉)は存在しないように見えるが、実は詩人が書き付ける前から詩(言葉)の生命の流れはすでにあることを忘れてはいけない。しかし、繰り返すが、その生命現象を、詩人はコントロールすることはできない。その流れのほとりにいることすら分からないし、詩人が書き付ける言葉の地平から《詩》は何も見渡せない。ただ自らが開いた言葉の流れに自らの生命のいとなみを溶かし込むことしかできない。そのような詩人のいとなみが、それとは全く断ち切られた生命現象を生き生きと生きている《言葉=詩》を引き寄せることは不可能だ。ただ、引き寄せることはできないが、引き寄せることをしないで――つまり言葉を《道具=手段》として使わないで、詩を書くことは可能だろうか。 いずれにしても、《忘れること》が、言語の生命現象のもとにある――そこから言語の流動性が生まれ、言語という不思議な生命現象のいとなみが支えられている。少なくとも、そのような言語現象のながれのなかに《詩》を置いてみることはなによりも意味のあることだということは言える。 やっかいなことを考え始めているのだが、もうこれはそのくらいにして、『エコラリアス』にもどるが、この書物は、読み手によってどのようにも自在に言葉の鏡をさしだしてくれるし、さまざまな鉱脈が走る言葉の地層を掘り進む悦びに充ちた1冊であることは間違いない。
by loggia52
| 2018-09-13 22:22
| 書物
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Comments(2)
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by
古賀弘幸
at 2020-02-14 07:00
x
――つまり言葉を《道具=手段》として使わないで、詩を書くことは可能だろうか。
この本、私もここ数年で読んだ本の中で最も印象に残るものでした。書(にとどまらないですが)を体験することを保証するなにかとして「残像論」というのを少し前から考えているのですが、ことばにおける谺も残像と深く県警していると理解し、何か自分が書いたかのような読書体験でした。
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loggia52 at 2020-02-16 12:28
「書」と「残像」とのかかわり。「ことば」と「こだま」。面白いテーマですね。詩はぼくの場合、活字で読んでいても、たしかに頭のなかで声に変換していますね。そのときの、「聞こえないこだま」にこそ、ポエジーが付着しているのかもしれません。示唆的なご指摘、ありがとうございました。
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