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![]() 『てのひらのみほとけ』を見ていて、すぐに思い浮かべたのは、内藤礼のあの《ひと》である。 これは、同じ小さなものでも、『てのひらのみほとけ』にある念持仏のような、「包み込む」あるいは、身体の中に「取り込みたい」というような思いは起こらない。仏像が持っている《包まれたいー包み込みたい》というような関係を結べない。あくまでも《見つめるもの―見られるもの》あるいは《見るー見られる》という距離を必要とする。 それは、内藤の《ひと》が、文字通り「人」だからだ。彼女が、この《ひと》を生み出したのは2011年。 「東日本大震災の後、彼女は「ひとを増やさなくてはいけない」という強い衝動に導かれ、角材から一体ずつ彫り出して瞳を書き入れた《ひと》の制作を始める」 と、『祝福』にある。 同じように小さくても、《仏像》ではなく《ひと》であること。この違いに、ぼくは胸を打たれる。それは、前者が仏(超越したもの)と私の関係に収束し、閉じられた世界に収斂する性質のものだが、後者には、私ー《ひと》の関係が、さらに世界へと開かれていく精神のベクトルを生んでいるという点で違いがある。 仏像は小さくなると私性を帯びる。人と同じ程度、もしくはそれより大きくなると、世界や国家や人類や宇宙へと格段に仏性は強い伝播性をもつようになる。内藤の《ひと》は小さくても《私》を、世界との緊張した関係のなかにいることに気づかせ、それによって《私》が、強い精神性をもって世界とつながることができるという確信にまでたかめてくれる。 端折っていえば、小さなほとけたちは、私にパワーを授け、内藤の《ヒト》は、見る私を通して、世界にパワーを注ぐ、ということだろうか。こんなに稚拙で小さな人形(ひとがた)が、それらが置かれた空間を、その精神性によって充たしているさまは圧巻だ。
by loggia52
| 2019-03-29 23:37
| 美術
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