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![]() 柄澤齊の新作展が4月8日から銀座の《村越画廊》で始まっている。(4月20日(土)まで) その初日に出かけた。 今回はダンテの『神曲』の地獄篇をモチーフにした作品が40点が並ぶ。いつものことながら、柄澤の個展の口上は実に格調ある含意ゆたかな名文である。あえて文語体の山川丙三郎訳を引用したうえで、その地獄篇の描写に、「水墨で描かれた山水画を思い浮かべる」という。地獄篇と水墨画―なんとも意表を突かれるアナロジーに、イメージの印刻の技を長年深めてきた彼の直観の冴えを感じるのだが、この墨と煤にコラージュなどをまじえた複合的な手法を、あえて山水画に引き寄せて語るところに秘密がありそうだ。 それまで続けてきた木口木版と、この墨や煤にコラージュをまじえた複合技法との重要な違いは、木口木版の場合は徹底した《手》の技法による完璧な統御が作品世界の生命を保証していた。それに対して、墨や煤の、いわゆる水墨を用いた方法は、もちろん周到な《手》の技を放棄しているわけではないが、作品決定の重要な要素を、墨のにじみや紙と墨との浸透のせめぎあいといった偶然的な、もしくは自然の推移(無意識)にゆだねているところだ。それまでの完璧な《手》の技法による作品世界の統御をあえて手放し、世界の側に、その統御の重要な部分を移している。 その相違は、闇の表現に端的に表れている。木口木版の闇は、漆黒の闇であり、測定不可能な闇であり、絶対的な虚無であり、彫りだされた細密な線刻がそのまま光の形象として浮かびあがっていた。 それに対して、墨と煤による水墨技法の地獄の闇は、奥行きのある深みをどこまでも細密な襞にまで入り込んでいける。めくるめくような、複雑で陰翳にとんだその肌理の表現は木口作品にはないものだ。 言い換えれば、木口作品の闇は、光と対立しあうものとしてあったのに対して、墨や煤の作品の闇は、光の粒子によってできている。つまり、光と闇は、単純で二元的な対立物ではなく、光は闇であり、闇は光でもあるような流動的なもの、にじみのうちにどちらでもあり、どちらでもないような融通的なものとなって、より複雑なもの、どこまでも降りていける無限の遠近法とでもいうべき陰翳深い異界を作り上げている。それは、光と闇を白と黒で表す木口木版と、水と墨(液体と粒子)の「にじみ」によって表す水墨的世界の違いでもあるだろう。 ![]() 和紙に墨や煤、アクリル、コラージュという複合的な技法は、2000年より前あたりから始まる。細密な木口木版という、完璧な手の統御によって生まれる世界から、作家の制御できない水と紙(水墨)の流動のさだまらぬ世界へと身を移していった彼の技法の変容には、当初、私などは驚きと戸惑いを覚えたものだが、そのような変容を彼に強いたのは、カタストロフ以後の世界像にひかれていく心性のゆえなのかもしれないと思ったりする。今までのように、そのような世界を敢えて技法の力業によって作り出すというのではなく、すでにそこにあるものとして、カタストロフ以後の世界が自然とにじみだしてくる―向こう側から出現してくる世界に身をまかせようとしているかのように思える。どこか宇宙的なノスタルジアや、深い静かさにみたされた作品世界を眺めながら、そんなことを感じた。
by loggia52
| 2019-04-11 17:16
| 美術
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Comments(2)
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