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![]() 池大雅・与謝蕪村の「十便十宜図」は、今までにもミホ・ミュージアムなどで、そのいくつかは見ているのだが、見るたびにため息が出る。ぼくが行った時は、「耕便」(大雅) 「宜春」(蕪村)の二図。なによりも、この小ささ。この小さな宇宙。こんどの川端展のポスターに、林忠彦の写真が撮った川端の写真が使われている。ロダンの「手」に見入る川端康成を撮ったものだが、こうやって畳の上で、この距離感で、川端は「十便十宜図」に見入ったはず。壁に掲げて見る西欧スタイルの画ではなく、それは箱に入れられ、そこから取り出して、息がかかるかかからないかの距離で見る。 すると、そこに描かれた山荘とその周辺の田園風景が広がる。そこで、悠悠と自適の暮らしをいとなみ、時に心しれた友が通い、自由に交誼を結び、魚釣りをし、酒を嗜み、座談を楽しむ。あたりの風景はこの世界のどこにもないのだが、画をながめていると、中国のどこかにかつてはあったはずだし、日本のどこかに、いまなおあるのかもしれない、いやあってほしいと思えてくる。そう、げんにここに画に描かれた世界があるではないか。それが大雅の記憶でも、蕪村のそれでもない。清代の中国の漢詩に詠まれ、さらに水墨画の伝統のなかで重ねられてきた風景の記憶を下敷きにして、ふたりがそれぞれ自らの生が息づくような世界に仕立てあげたのだ。なんともなつかしく、やわらかで、のびのびとした自由な世界。実際にあるかないかではなく、こちらからすっとそれらの画にこころの中で入っていけばいい。そうすると、今の時代の生きづらさを思い知らされたり、現実の自分が関わっている世界にはもはやないものに触れていることに気づく。 それに関連して、川端康成の『反橋』からの引用が、美術館に掲げられていたのが気になっていたので、その本文に当たってみた。 「美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの生につながってゐるやうな思ひがいたします。さうでない時の自分は汚辱と悪逆と傷枯の生涯の果て、死のなかから微かに死にさからつてゐたに過ぎなかつたやうな思ひもいたします。」さらに、 「美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失つて来た多くのもの、現在は失はれてゐる多くのものを知るのでありますが、それを見てゐるあひだは過去へ失つた人間の生命がよみがへつて自分のうちに流れるやうな思ひもいたします。」 さらりと言っているように思えるが、はっとさせられる一節である。「古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもない」というのは確かに、こうした南画を見ているときの実感である。それが「反橋」の描かれた昭和23年の、復興途上の日本であればなおさらである。 はたして、今の時代は、こうしたものを捨てて、どんな「生き生きと強い新しさ」を生み出したというのだろう。 そう思うと、今度の展覧会で、今の時代が捨てたものがもう一つあったことに気づかされた。それは《書》。 筆と墨と硯で文字を記す《書記》法である。このことについては、また別に。
by loggia52
| 2019-09-23 15:16
| 美術
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