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![]() 「十便十宜」を見る前に、姫路文学館で、川端コレクションのもう一つの見ものである文人たちの書をたっぷりと見た。今更ながら、何か大きな落としものをしてしまったことに気づく。文学というものが、ただ小説や詩や短歌といった作品世界のみを指すのではないということを知らされたような気がする。それぞれの作品世界を植物で例えると「花」ということになるだろう。その花に繋がって見えない地下には、それ以上に深く広い「根」の世界がある。むろん、根は花を咲かせるわけだから、動物の「脳」にあたるのは花ではなく「根」にある。文学の領域は、花の部分だけではなく、根の部分も含めなければならない。脳の中は見ることはできないが、それをさまざまなかたちで垣間見ることができる。愛用の日用品とか、愛蔵する作品や、住まう家や・・・。ただ、それらをたんなる実証的な作家像をくみたてる証拠品として研究するのは文学ではない。それらの「もの」が作家の言葉としてどう語られているか、あくまで「言葉」にかかわることでなくてはならない。 どうも前置きが長くなったが、その作家の「言葉」を如実に伝えるのが「書」である。何も毛筆の書のみを差すのではない。原稿用紙やノートや便箋にしるされた文字、筆写された文字も含めて。 姫路文学館で多くの文人たちの毛筆の書を見ることができた。これが圧巻なのだ。川端康成本人の書、夏目漱石、徳田秋声、横光利一、三島由紀夫、白秋、茂吉、牧水、紅葉、武者小路実篤、林芙美子(書簡)、田山花袋、菊池寛、芥川龍之介、太宰治。どの作家もまるで、それぞれの顔を見るようにまったく個性のかたまり。太宰治は巻紙の手紙で、あの有名な、芥川賞を下さい、と川端に懇願する手紙が展示されたいるのだが、ぼくでも読めるどこか稚拙な文字なのだが、それがなんだかわざと媚びているような感じに見える。太宰の息づかいが聞こえてくる、とても臨場感のある手紙の文字だ。 ![]() やっぱり、息を飲むのは漱石の書。五言絶句が軸に設えられているのだが、のびやかな筆の線に見えて、実に繊細な神経が透けて見えるような、末に行くにしたがって、細い毛筆の線が枯れていって、かすれていくさまが、独特の書の世界を作っている。それと対照的なのが川端の書。したたるほどの墨をたっぷりと含ませて、一字一字にじっくりと気を込めて書く。神経を抜くところがない。力のみなぎりという点で、川端はそれを込めようとし、漱石はそれを逆に抜こうしている。ちなみに、三島由紀夫は、川端康成の書と似ている。師弟だからというわけではないだろう。どこか通いあうものが確かにある。 横光利一は右上がりの、筆の入りに力を込めて、あとはスピード感をもってすっと力を抜いて次の字に向かう感じのリズム感。斎藤茂吉の色紙は、いかにも茂吉らしい律儀な(?)仮名書きなのだが、書いてある歌がいい。思わず口をついて歌ってしまった。 「ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも」。歌集『あらたま』の一首。 ![]() 少し長くなるが、古賀弘幸さんの『書のひみつ』(朝日出版)のはじめに、書の見方の基本が書いてある。なるほどと思ったので、フレーズだけだがあげてみる。 「●書いているつもりになってみる ●リズムと呼吸に注目しよう ●文字を景色として見る ●一回きりの生々しさを感じる ●文字から「心」をのぞき見る」 まさに、文学館で見た文人たちの書を見るのに、絶好の指南書だ。とくに「文字を景色として見る」「一回きりの名生々しさを感じる」などには大いにうなずくところがあった。 これらの指摘は、ひっくり返すと、今ぼくが書いているようなデジタル文字やパソコンのキーボードを打って印字する文字には、絶対に不可能な特質なのだということに気づかせてくれる。つまり、そういう文学の「根」につながる、ある大切な部分を、ぼくたちの文学は切り落としてしまったということなのである。ぼくが最初に言った「落としもの」とはこのことである。
by loggia52
| 2019-09-28 10:52
| 美術
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Comments(2)
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