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![]() 冬の森番 青野暦 玄関先で セーター一枚では もう寒いことに気がつく。 サイズのおおきいジップ・パーカーを とっさに借りて、家を出る。 駅まで急ぐと、汗をかいた。 中央線で電車に乗って 約束に遅れないですむとわかってから パーカーのあたたかさをおもった。 てのひら一枚ぶん、余計に わたしを覆う袖を眺めて 父がいなくなるときが 詩のなかに一瞬ひらめくのを 紙もペンもなしにわたしは理解した。 虚構のてのひらの上には 枯れかかったばらの花。 東京の冬の日に その色のすべての粒子がふるえて かがやいている。 用事をすませて家に帰ると 父がおいしそうに夜ごはんを食べている。 このひとが日々 何を食べるかを楽しみに生きている。 その合間に仕事をして、本を読み ときどきは家族のことをおもっている。 よく着るセーターには タイトルをつける。 いま着ているのは、「冬の森番」。 モス・グリーンの地に 別の緑色で十字の模様が入っている 若いころからの お気に入りだ。 久しぶりに写してみたい詩に出会った。「冬の森番」。 いい詩だと思ったら、写してみる。そうすると、書き手の息遣いがたどれる。 それから、言葉の飛び具合。例えば、パーカーのあたたかさを感じて、「てのひら一枚ぶん、余計に/わたしを覆う袖を眺めて/父がいなくなるときが/詩のなかに一瞬ひらめく」と続くのだが、この「父のいなくなるとき」が唐突に出てくるところが、この詩の勘所だ。まったくそれまでの経緯から切れていながら、その切断面に、言葉の身体の、うずうずするようなみなぎりが貯えられている。重要なのは、「虚構のてのひら」。つまり、父の死を言葉の世界で取り出す、そのぞくぞくするような未知の感覚。 後半の、父にたいする書き手の距離の取り方に、ぼくなどはいささかとまどってしまうのだが。 例えば「森番」といえば、どうしてもぼくの世代では寺山修司がすぐ浮かぶ。「わが通る果樹園の小舎はいつも暗く父と呼びたき番人がいる」「ねむりてもわが内に棲む森番の少年と古きレコード一枚」。おそらく、この詩人も、寺山修司の句を下敷きにしていると思う。 しかし、この寺山の「父とよびたき番人」と、この詩人が「このひと」と呼ぶ人との、微妙な乖離に、おそらくこの詩の読みどころがあるのだと思う。寺山の父に対する「畏怖」と、この詩人の父に対する「共感的な肯定感」。それはどうしようもなく、この時代の実相を伝えているに違いない。 戦後詩において、こういう、畏怖の感覚が拭われた父へのオマージュが、実に素直な言葉で表明されたのは初めてではないか。自らの行く手に手を差し伸べるかのような同胞としての父へのオマージュ。いささか戸惑いながら、いい詩だなと、こうして書き写してみる。 もうひとつ、「中央線」とか「東京の冬の日」とか、具体的な土地の名を入れることで、詩にリアルな言葉の血液を供給することができることを教えてくれる。セーターに名を付けるというエピソードも、父の肖像に臨場感をくわえる実に巧みで心憎い意匠と言えるだろう。
by loggia52
| 2022-04-15 01:02
| 詩
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