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「暴力はどこからきたか」の続き。
子守唄の起源についての仮説はおもしろい。まだ言語を獲得する以前においては、歌と踊りが、共同体の結束を高めたということ。二足歩行がそれをもたらしたというわけだが、直立することで声帯に変化が生じ、発声が容易にかつ多様な声をつくりだした。もう一つは、身体の複雑な身振りが可能になったことで、感情を多様に表現することができるようになった。そうした豊かな声の表現や複雑な身振りをコントロールする脳の発達。 一方、サバンナで捕食者から自分たちを守るために、人類は、家族を単位として集団で、共同して暮らすことを選択する。育児も共同して行った。そのために、生まれたばかりの赤ん坊を母親は他者に預ける。ゴリラやチンパンジーの赤ちゃんは泣かない。親が赤ちゃんを手放さないからである。母親からはなされた赤ん坊は激しく泣く。それをなだめるために子守唄が生まれたというのだ。母親ばかりではなく、赤ん坊を託された者も子守唄を歌う。 この音楽の効果は子守歌だけではないと山極は言う。男たちの連帯を強め、高揚した共同意識に誘うのだ。つまり「音楽によって自分と他者との境界が消滅し、一体化したような気分」を作り出す。これが、「集団の外に対する敵がい心を育み、集団間の戦いに発展する共同意識をもたらした」というわけだ。 子守唄と戦意高揚をもたらす音楽。この「感情を表出する新しい技法」を獲得したのは、言語を生み出す遙か以前であることに注目すべきだろう。ぼくたちが、意味のわからぬ外国の歌を聴いて胸を震わせるのは、しごく当然のことなのだ。感情を鎮め、また昂ぶらせ、涙を誘い、怒りを増幅させる音楽。その音楽が、原初から強い身体性のもとに生み出されたものであることにあらためて気づかされたという訳である。 また、ずっと後になって生み出された言語は、この音楽の身体性からは自由にはなれない。言語の音楽性は言語からは切り離せない。たとえ、活字に写して、タイポグラフィーに言語を委ねても、言語の身体性は払拭できない。 詩を声にだして読むという試みの面白さはここにある。「詩を読む」とは言っても、言葉の意味を、(つまりは詩に書かれている内容を)伝えるのではない。それはちょうど、言語をもたなかった人類が赤ん坊をあやすときに歌った唄と同じように、詩という作品のもつ「思い」の全体(身体性)の表現であるだろう。言い換えれば、ことばにならない何かである。それこそポエジーと呼んでしまいたい何かである。また別の言い方をすれば、作品(ことば)を産み出した詩人の身体が、言語を持たなかった遙か昔の人類の唄の記憶を呼び覚ますことでもあろうか。いやもっと単純に、ことばを唄に還す、「詩を読む」とは、そういうことではないだろうか。
by loggia52
| 2008-05-25 22:47
| 音楽
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