カテゴリ
全体 Loggia/ロッジア 『石目』について ぼくの本 詩集未収録作品集 詩 歌・句 書物 森・虫 水辺 field/播磨 野鳥 日録 音楽 美術 石の遺物 奈良 琵琶湖・近江 京都 その他の旅の記録 湯川書房 プラハ 切抜帖 その他 カナリス 言葉の森へ そばに置いておきたい本 未分類 以前の記事
2023年 11月 2023年 10月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 more... フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
家から数分も歩くと、田が広がる。今は一面の水の王国である。田植えのすんだ田がずいぶんと増えた。晴れた日には、その水の張ってある田の面に空が映る。山あいでは、その山が映りこむ。田植機が入ると、どこからともなくアマサギが一羽、二羽と餌をあさりにやってくる。頭部のあたりが、名のとおり亜麻色に染まった小型のサギで、遠く南方から渡ってくる。ここから少し車を走らせて、山あいにまで行くと、見事な棚田の風景が見られる。田植機では隅のほうまでうまく植えられないので、そのあたりは手植えをする。数人の年配の女性が田植えをしている図は、まさにモンスーン気候の風土につらなるアジアの農村の風景そのものだといつも感じる。 この水のうるおいに山が息づく季節に身を置いていると、南画に限らず、中国から渡ってきた山水画、水墨画がこの国に根付いていった来歴が自然に納得される。この大気の湿り具合、家の内にまでしのびこむ水の匂いは、開いた画集の、南画の墨の色を、描かれた時のみずみずしさにもどしてくれるような気さえする。 折しも、兵庫県立美術館で、「南画って何だ?!」という展覧会をやっていた。兵庫県ゆかりの村上華岳、水越松南の画を据えて、近代の南画を展覧しようという試み。当然、南画の歴史的展開を検証するために、江戸期の南画が幾つか出展されている。会期末の迫った先日、あわただしく美術館に飛び込んだ。 池大雅「四季山水図」、「考槃嘯林図」、与謝蕪村「渓山漁隠図」、「秋景山水」、浦上玉堂「山中無事図」など、ほかに谷文晁、田能村竹田、浦上春琴、青木木米、岡田米山人などが並ぶ。やはり蕪村の「渓山漁隠図」が目をひく。それに大雅の「四季山水図」。これらの南画の傑作を眺めていると、気分がほどけてくるのが自分でもわかる。西洋の絵を見る時のように、「対峙する」という感覚がない。すっぽりと自分の魂魄が滑り込むようなトポスが、南画の画面のどこかにある。蕪村の「渓山漁隠図」などの画では、険しく厳しい巌の際だつ山容のふもとにひっそりとある小家がそれにあたるだろうか。まるで、胎内に続いている入り口。そんなトポスが可能なのは、南画の画面(空間)が、自在に二次元になったり、同じ画面でありながら三次元になったり、n次元になったりするという性質を持っているからだ。画面に賛の文字が、無造作に山水の風景の余白に刻まれる。朱のまばゆい落款が一つならず押される。ある部分は細やかで繊細な筆遣いで、樹の葉や竹が克明に描かれるかと思えば、何もほどこされない余白がたっぷりと画面を領している。筆の遊びで加えられたような人やその顔立ち。さっき隠者のすまいが胎内への入り口だと言ったが、そのすまいに佇む隠者の風貌は、きまって赤子のようにイノセントな面立ちをもって描かれていることに注意しよう。 このような南画は、「見る」というよりも「眺める」という眼差しに自然となってしまう。つまり、既に画の前にいる者の魂は、自分の身体を離れて画の風景の中のどこかに滑り込んでいる。その自分の魂の在処を画の中にさがしているような按配である。
by loggia52
| 2008-06-06 23:20
| 美術
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||