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これはぼくの勝手な詩想だが、「五百羅漢」という名称は、カムフラージュに過ぎないのではないか。一応の体裁を整えるためにつくられた「言い訳」が「五百羅漢」なのではないだろうかと思っている。 では何をカムフラージュするためなのか? これらの写真は、ここの石仏群のなかでは典型的な顔作りと言える。鼻筋がはっきりしていて、横にまっすぐ引かれた目、短く一文字の直線に結ばれた口。陰翳のかげんで、日本人とは離れた印象を与える。また仏像としての神々しさがあるかと言えば、そうした仏性とは性質が違う。素朴で稚拙にさえ見える彫り方からか、仏とも聖者ともちがう、ぼくらと同じ「ひと」に近いという印象を与える。 ではぼくらとどこが違うのかといえば、それらのどの像も、同じものを見つめているように思えるのだ。 一途に、ひたすら何かを見つめ、それ以外はいっさい捨て去ったものの表情。それが何なのか。少なくともそれが目に見えないものであるというのは、彼らの眼差しが半ば閉じているような瞑想の時のそれを思わせることからもわかる。 それを「彼岸」と言ってしまっては、いちばん大切な何かがこぼれおちてしまう。現世でも彼岸でもない。 ぼくには、かれらが「ここ」にも「むこう」にも住むことを許されないエグザイルの一群のように見えるのだ。流浪する人たち。故郷を持たない集団。どこにもない故郷を夢見る眼差しと、とりあえず言っておきたい。
by loggia52
| 2009-04-18 22:38
| 石の遺物
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