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![]() ![]() 当日、出来たての《百年のわたくし》の冊子も配られた。下がその表紙と目次。出演者の作品のほかにも、この詩祭の常連である藤原安紀子さんやぱくきょんみさんの作品も載っていて、30ページに及ぶ、そそられる冊子だ。
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by loggia52
| 2022-10-03 20:30
| 詩
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![]() 場所は京都のまん中にあるお寺、徳正寺(富小路四条下ル)。 徳正寺は500年以上にも及ぶ歴史を持つ浄土真宗のお寺。本堂の御本尊は鎌倉後期(13世紀後半)と推定される阿弥陀如来立像。 詳しいことは徳正寺をclickしてください。 このお寺の本堂を会場として、《百年のわたくし》は第5回目の開催となります。ここ3年はコロナ禍のために開かれなかったので、3年ぶり。 出演者は、荒木みどり、季村敏夫、素潜り旬、時里二郎、扉野良人、山崎佳代子、吉田省念。 ほぼ毎回催しには訪れていましたが、詩を読むのは初めて。予定している新しい詩集から3編を用意しています。 なお、巻五の冊子も作られるようです。また会場では、出演者の著書はもちろんですが、今回参加できなかった藤原安紀子さん、ぱくきょんみさんの詩集の販売もあります。 ぼくは書肆山田から上梓した『星痕を巡る七つの異文』、『翅の伝記』、『石目』、それに思潮社刊の『名井島』をそれぞれ2冊ずつ。 参加ご希望の方は「メリーゴーランド京都」tel/fax 075-352-5408 Mail: mgr-kyoto@globe.ocn.ne.jp まで。参加費2000円。
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by loggia52
| 2022-09-27 17:23
| 詩
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![]() ![]() 季村敏夫さんの個人誌、『河口からⅧ』が届いた。全98頁に及ぶ。 思えば、創刊号は、紙片を折り込んだだけのわずか8頁の薄い冊子だった。 「私信のようなものを書きつらね、一方的に送ろうと動き始めてしまった。」と創刊号(2016年3月刊)で季村さんは書いている。「彼の周辺の、顔の見える人に手渡す〈私信〉というスタイルだった。具体的に言うと、宝塚にいらっしゃる詩人の岩成達也さんを囲んで、季村さんをはじめ、関西在住の瀧克則、倉本修、細見和之、水田恭平の各氏とぼく、さらに東京在住の瀬尾育生さん、宗近真一郎さんらが不定期に集まっている人たちとの交流が核になっている。そこからさらに、季村さんの個人的な、顔の見える人たち、例えば、山崎佳代子さんやぱくきょんみさん、扉野良人さんたちとの交流も加わって、こうして内容の充実したリトルマガジンにまでなった。」(かつてここに書いた内容) 創刊号の《私信》というスタイルを引き継いで、8号もやはり 季村さんの魂の磁場とでもよぶべき、実にプライベートな因縁をベースにしていることをつくづく感じる。季村さんのその磁場に引き寄せられるかのように、執筆者は、季村敏夫への私信のようにして書いている。 また、その一方で、彼は、どうしても、この「いま、ここ」の状況や、それを越えて、記憶しておかなければならない魂の言葉に、詩誌の紙面を提供している。 例えば、5月に逝去された書肆山田の大泉史代さんの『しろいくも』。同人誌「月光亭」7号(1993年7月)に収録されていた作品だ。 また、野口豊子さんの「冠脱島へ」。金時鐘さんの詩(の言葉)と、その生きざまを追っておられるひとの、稀有なドキュメントが「冠脱島へ」。今、よみはじめたばかりだが、しばし息をとめながら、金時鐘氏とその故郷済州島との濃密なドキュメントを読んでいる。 瀬尾育生さんと岩成達也さんとの往復書簡もひさしぶり。こういう稀有な言葉の交感を共有できるよろこびもこの詩誌ならでは。 ほかにも書きたいことは多くあるのだが、まだ届いたばかりでじっくり読んでいないので、折りにふれて書き継いでいくつもり。 まずは目次で内容をごらんになってください。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ なお、『河口から Ⅶ』の注文は、「澪標」 〒540-0037 大阪市中央区内平野町2-3-11-203 電話06-6944-0869まで。
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by loggia52
| 2022-09-07 14:59
| 詩
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![]() 前詩集『あのとき冬の子どもたち』は、冬の冷気の中で孤独な話者を登場させて始まる。それも「冷気を炎と感じられるほど/ひとを憎むことも/許すことも できなかった」と、いきなり切迫した情感の表出をともなって。 冒頭の「それでも星は/清潔な包帯のように流れつづけた」という清冽な直喩も印象深かった。冬で始まった「わたし」の心の遍歴は、夏の雨が山の緑を湿らせるところで終わっていた。そこでも、「遠い郵便が届いた気配がして/夏の雨が/窓を叩きはじめた」という絶妙な喩のアナロジーを織り込んで。冬から夏へという季節の変遷も話者の心の遍歴と重ねられながら、詩集の時間を作り上げていた。 前詩集は、強い《私性》にこだわった詩集だった。 今度の『微熱期』が、前詩集の季節(冬→夏)を受けて「夏の雨」で始まるのは印象的だ。『あのとき冬の・・』の掉尾を飾った「新盆」に降った夏の雨を思い出させると同時に、新しい詩集が、それとは違う「また新しい/夏のはじまりとなるように」(「夏の雨に」)という思いが込められているかのようだ。 『微熱期』で試みられているのは、《私性》のポリフォニーとでも呼ぶべき多声的な「わたし」を話者とすることで、言葉のさらなる沃野――とりわけ新しい抒情詩――へと詩を導こうとすること。 前詩集で見られた強い《私性》――とりかえのきかない「わたし」の影は薄められ、話者である「わたし」は、それぞれの作品によって変化する。また、「わたし」は、読み手の想像力によってどのようにも変容し、作品はまたそれを容認する。 霧で包まれたような、あるいは虚構性の強い皮膜で蔽われた話者(「わたし」)をぼくなりに言い換えると、前詩集が《詩人の身体》を強く意識した「わたし」であったのが、今度の詩集においては《詩の身体》に自在に操られた「わたし」に変容していること。 初めに挙げた『あのとき冬の子どもたち』の冒頭の詩の言葉を想起するとよい。「わたし」の強い身体性を感じる情感の表出に対して、『微熱期』の「夏の雨」の「わたし」は、だれなのか。どこにもそれに応えるものはない。その謎に満ちた極めて薄い「私性」は、読み手に預けられ、詩のなかの言葉の身体として投げ出されている。 この作品に限らない。「わたし」は一人ではなく、多声的な「わたし」として詩集のなかに遍在している。それは「あなた」と呼びかける人も、幾度も呼び出される「母」も同様に、それぞれの「私性」は虚構性の皮膜に包まれていて、作品を読む読み手に委ねられている。 つまり、『微熱期』は、《詩人の身体》=「わたし」を後景に退かせ、それに代わって《詩の身体》を強く意識した詩集なのだ。多声的な「わたし」は謎に満ちている。その虚構性の強い話者(「わたし」)の奏でるヴァリエーションに富んだ言葉の多様な展開は実に刺激に満ちている。今までの詩集でも実証ずみだが、作品の構造に大きく影響を与えるような直喩を初めとする抒情詩のレトリックもうっとりさせるほど冴えている。 ![]() ただ、実はぼくは前詩集の『あのとき冬の子どもたち』の方にまだ魅かれている。言葉の密度も、ポエジーを凝集させていく手際も前詩集のほうが均質で高い。 確かに「ヒヤシンス」や「発熱」などの散文スタイルの目覚ましい熟成感には舌もまくし、短歌的なものに触手を伸ばす意欲的な作品(「未完の夏の眼に」)にぞくぞくするものを感じる。抒情詩の可能性の新たな展開に意欲を見せているその姿勢には胸を打たれる。 総じて『微熱期』のレトリックの安定感、比喩の感度はゆるぎないものはあるが、その充足感をさらに分け入ってみると、峯澤の抒情が、時としてそれまでの既成の抒情詩の既視感と背中合わせなのに気づく。 例えば、虚構の匂いを強く発散させる「旧市街」、「鎧戸」。「ライラック」、「薔薇」、「ジャスミン」、「半島」、「廃園」、「霧」などの語彙に、峯澤の志す抒情的な世界の構造が読み取れて興味深いのだが、ふとそういうitemに安易に言葉が流されてはいまいか。あるいは、ところどころに、常套的な抒情表現が垣間見られるのも気になる。 むろん彼女のことだから、それは織り込み済みのことに違いない。「本歌取り」のように、既視感のある近代抒情詩の世界を随所で借りながら、そこにはっとするような感性を移植して清新な言葉の世界として切り返して見せているのは確かだ。 あるいは、先ほど指摘した多声的は「わたし」や、薄い《私性》の「わたし」は、より多くの読み手を詩の世界に引き込もうという試みなのかもしれない。 また、一見してそれまでの既成の抒情詩の書き割りをあえて使おうとするのも、そのためかも知れない。『あのとき冬の子どもたち』は、《詩人の身体》を強く意識した作品だと言える。その分だけ、詩の読み手についての配慮なり関心なりは弱いのはあきらかだ。 そう考えると、『微熱期』は、新しい《詩の身体》=抒情詩の姿を提示しようとした果敢な挑戦と言えるかもしれない。 前詩集が、戦後詩の流れのなかから必然的に紡がれた詩集だとすれば、『微熱期』は、戦争によって絶たれた近代抒情詩(大正~昭和10年代)の流れを引き継ごうという果敢な挑戦の書と言えるかもしれない。 #
by loggia52
| 2022-09-02 00:18
| 詩
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![]() 望月さんの俳句好みは夙に知られるところ。昔は柄澤齊さんをくわえて連句をよく巻いたもの。鈴木漠さんに捌いてもらった四吟「愁人の巻」の表六句と名残の裏六句を引く。ちなみに、酔水(すいすい)=望月通陽、漠(ばく)=鈴木漠、黙木(もくもく)=時里二郎、版骨(はんこつ)=柄澤齊。酔水さんが発句を詠んでいる。 『愁人の巻』 愁人と訪ふて椿の小道かな 酔水 鳥も童子もなべてかぎろひ 漠 廃園に鞦韆(ふらここ)軋る夕べにて 黙木 湯舟の父の掌の錆 版骨 葡萄酒とパンを購ひ月繊(ほそ)し 漠 青き時代を野分だつなり 酔水 ・・・・・・・・・・・・・・ 落款は狩野でよいかと尋ねられ 版骨 ずしりと重き門を推すなり 黙木 大将の役に大部屋起用して 酔水 器(うつは)あれこれ選(え)る土筆和え 漠 花明かり母君おはす夢の縁(へり) 黙木 曙色に卵染め上ぐ 版骨 一九九〇年四月(文音)
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by loggia52
| 2022-07-08 21:18
| 美術
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